【ein zwei kuss】




 折りたたみ式の携帯を、繰り返し開閉させながら着信を待った。携帯電話のディスプレイには現在の時刻、19:30が小ぢんまりと右端に表示されている。
 携帯をパクン、と閉じたギルベルト・バイルシュミットは、短いけれど盛大でつまらなそうな溜息を吐いた。長椅子に寝そべり、だらりと垂らした右腕に、飼い犬の柔らかな毛が触れた。
「この毛並みはベルリッツだな……ははっ、アタリってか。さすが俺様、見なくてもわかるぜ」
 ぺろりと、大型犬特有の肉厚の舌で手の甲を舐められて、ギルベルトははしゃいだ。
 俺様はなんでもわかるんだぜ、と続けてみたものの、わからないことが本当はある。――今のルートヴィッヒの様子だ。
 ギルベルトが敬愛する弟であり、ドイツの具現でもある彼は日本で行われている世界会議に出席しているのだが、会議が長引いているのか、一向に連絡がこないのだ。
 欧州の牽引国でもあるドイツの役割は重く、弟の肩にかかる重圧は相当なものであることは想像に難くない。
「――にしても、だ。長引いてたって休憩くらい挟むだろうがよ」
 口吻を尖らせて、再度ディスプレイを覗く。とうぜんだけれど、着信履歴はない。
「ほんのちょっとの電話も許されねえくらい、紛糾してンのかよっ」
 理由はいくらでも思い浮かぶが、それでもやはり放っておかれるのには釈然としないものがあった。メールでもいい。「連絡が遅くなってすまない」の一言だって構わないのだ。
「ルッツの声が聞きてぇ」
 ソファの上で寝返りを打ち、背中を丸めた。
 ルートヴィッヒは開催国でもある日本とは旧知の仲ということもあってか、他の国よりも、とうぜんイタリアよりも早く日本入りした。その為に、ドイツを予定よりも二日早く出発したのだ。
 到着した当日に入った電話では、「アルフレッドが先に来ていて驚いた。なんだか複雑な気分だ」と、しばらく顔を合わせることができない兄への想いなど微塵も感じさせないセリフを言って通話を終えた。
「アルのことなんかどうでもいいだろ。菊にべったりなんだから、先にいてあったりまえだっつーの」
 それよりも、どうして「兄さんと離れて寂しい」の一言がないのか。
「ムカつく」
 不機嫌な声ばかりあげる飼い主の様子を窺うように、起き上がったベルリッツがギルベルトの顔を覗き込んできた。その横でアスターとブラッキーも控え、首を傾げながらこちらをみつめている。
 三匹の大型犬がこぞってギルベルトに身を寄せると、さすがに重苦しいのか、ギルベルトは苦しそうに呻いた。重要な任務である彼らとのコミュニケーション、つまり散歩はすでに三度も行われていて、正直遊ぶ気力はほとんどなかった。
 遊べとねだっているのか、寂しくないよと慰めてくれているのかわからないけれど、何にしても、
「ちょ、お前ら重いって」
 両手両足をバタつかせて追いやると、三匹は恨めしそうな視線を寄越しながらソファから下りた。
「そんな目で見んなよ。俺が悪モンみてえじゃねえか」
 なんだか胸が痛んで上半身を起こしたギルベルトは、離れていく犬達を追おうとした。腰を浮かせたところで携帯が鳴り出した。誰からの電話かも確かめずに、ギルベルトは携帯をすかさず拾い上げる。
「ルッツ! 待ってたっ」
 犬にひどいことをしたかな、と先まで痛ませていた胸は上機嫌に染まり、鼓動を一気に昂ぶらせた。
 ワンコールも終わらない内に出たことで、電話の向こうで弟が小さく笑ったのが聞こえた。その表情は手に取るようにわかる。他国の前では仏頂面のドイツが、兄プロイセンにだけ見せる幼い笑顔だ。
「なかなか電話が来ねえから、お兄様忘れ去られたかと思って寂しかったぜー」
 弾む声音はまったくもって寂しそうではなかったが、ルートヴィッヒは連絡が遅れたことを心底詫びた。
「会議自体は早めに終わっていたんだが、本田から個人的に聞きたいことがあると言ってきてな。それに付き合っていたら遅くなってしまったんだ。ほんとうにすまない」
「菊か…、ならしょうがねえ。許す」
 個人的にどんなことを聞いてきたのか、気にはなったが弟に確認するほどのことでもない。
「早めに日本入りすんのに、強行スケジュール取っただろ。お前、体調はいいのか? 日本はこの時間だと真夜中じゃねえの?」
「問題ない。それより兄さんこそ、俺がいないからといってグウタラしていては身体が鈍るぞ」
「鈍んねーよ。今日なんか、ベルリッツ達を三回も散歩させたんだぜ。あっちーのにアスターとベルリッツがなかなか帰ろうとしねえから、俺とブラッキーはアイス食って休んでたくらいだ」
「おい、兄さん。ブラッキーによけいなものを食べさせるクセをつけないでくれ。俺がきちんとメニュー表を渡しておいただろう。指示通りにやっていてくれないと、帰国したときに俺が困る」
 うっかり口が滑ったことを後悔したギルベルトだが、弟の管理したがる口調はどうにも心地いい。
 ソファから立ち上がった主人にあわせ、三匹の大型犬もいっしょに立ち上がったが、ギルベルトが右手で「待て」の指示を出すと、素直に従い床に伏せた。
「どうした、兄さん」
「いいや、なんでもない」
「声が揺れているが、なにか作業の途中だったのか? ならば、もう電話は切ろう」
 居間から寝室へ移動しているギルベルトは、闊達に笑いながら、
「俺様がこの時間になってもまだ家事をやり残しているとでも思ったのか? ちげーよ、部屋を移動してるだけだ。……そっか、日本は真夜中だもんな。お前ももう眠りたいよな」
 明らかに声のトーンが沈んだ兄に、ルートヴィッヒが優しく答える。
「今から眠っても、かえって疲れが残るだけだ。兄さんさえよければ、朝まで付き合ってくれないか」
 願ったりの言葉だが、ギルベルトは素直にそう答えず、
「あまえんぼさんだな」
 と兄ぶって見せた。

 私室に入り、ベッドの上でギルベルトはゆったりと足を伸ばした。互いの部屋を行き来して、どちらのベッドで眠ってもいいように双方のベッドはダブルサイズに揃えた。ふたつの羽根枕を背当て代わりにして、ヘッドボードへ頭を乗せる。
 明かりと言えば、ベッド下のフットライトとサイドテーブルにあるステンドランプしかない。葡萄を象ったステンドグラスのランプからは、柔らかな色合いの光が溢れ、ギルベルトの白い肌を温めるように照らしている。
 実のところ、ギルベルトはルートヴィッヒの声に激しく興奮していた。渡されていたメニュー表には、飼い犬のものとは別にギルベルト専用のものもあったのだ。
「“メニュー”はきちんと守ってくれていただろうな」
 ルートヴィッヒの声に、愉悦が混じる。顔を見なくてもわかる、楽しげな声だ。ギルベルトは抑え気味に答えた。
「いいつけは守っていたさ、Mein Bruder 」
 ともすれば息が上がりそうになるのを必死に堪えた。ギルベルトの右手はたどたどしくデニムの前を寛がせ、中からぴんと張り詰めたペニスを解放させる。
「左手を使ってはいないだろうな」
「使ってねえ、よ。ちゃんと……右手」
「俺がいない間もきちんと我慢できたか」
「我慢した。だから、今、すっげー状態……はは、ルッツが見たら呆れて笑うかも」
 興奮して息が上がり始めたギルベルトとは対照的に、ルートヴィッヒの声は、僅かな熱を帯びてはいたが淡々としたものだった。そんな弟の声だからこそ、ギルベルトは酷く興奮する。
「いいつけ通りに我慢していたのなら、貴方のペニスはすでにいやらしい体液に塗れているのではないか?」
 音を聞かせてくれ、と言われ、ギルベルトは携帯を自身の熱に沿わせた。そして、利き手ではない右人差し指と親指とで挟み込んだペニスをゆっくりと扱いた。上下の動きに合わせて小孔から零れ落ちてくる蜜が、くちゅり、と水音を立てた。
 寛がせただけのデニムでは、足を広げることもままならない。焦れったそうに裸足がベッドカバーを蹴る。
 ふふ、と楽しげな声が携帯から洩れ、「兄さん」と続く言葉がギルベルトを呼んだ。
 思考が緩くなり始めたギルベルトは、もたつきながら携帯を耳にあてた。
「扱いたのなら、とうぜん指は濡れているな。どんな風に濡れている?」
「ふぁ? どんな風って……ん、と……とろって雫が垂れてる。指と指の間に糸が引いてて……」
 自分の体液で濡れた右手を広げ、ランプに翳してみた。細い糸が指同士を繋ぎ、橙の光に染まっている。
「そうか。そんなに濡れているのなら、綺麗に拭き取らないといけないな。――舐めろ」
「……?」
 思考回路が鈍いのか。舐めろ、と言われた言葉を理解するのに、ギルベルトは少しだけ時間がかかった。
「俺のを、俺が舐めるのか?」
「そうだ。簡単なことだろう。自分の指を、自分の口の中へ入れて、綺麗に舐め取ればいいんだ」
 ギルベルトは自身の手を一頻り見つめた後、恐る恐る口元へ運んだ。独特の匂いが鼻をつく。牡の匂いだ。
 親指、人差し指、と順に口へ差し入れ、舌先で丁寧に舐め取る。指の間に垂れた愛液は、舌を這わせて舐めた。ぴちゃぴちゃと、わざと音を立ててルートヴィッヒに聞かせてやる。
 自分はこんなにも弟の声に興奮しているのだから、お前も同じように息を荒げればいいとギルベルトは思った。
 だが、ルートヴィッヒの声には多少の熱が篭った以上の変化はなかった。
「俺に許しを請いたいのではないか? たとえば……もっと足を広げて自由になりたい、と。そうすれば兄さんの好きなアナルも弄れるからな」
 くつくつと笑う弟に、ギルベルトは耳まで真っ赤にさせ、
「俺は、そんなにアナルは好きじゃねえ」
「そうか? いつも腰を振ってよがっているじゃないか」
「あれは……! あれは、ルッツだから気持ちいいんであって、だな。ひとりだとそんなに」
「“ひとりだとそんなに”? なんだ、兄さん。オナニーするときに後ろも使うのか」
 しまった、と思ったがどうしようもない。下唇をきゅっとひと噛みした後、
「いつも、じゃねえ。ルッツが長く家を空けたときとかに……ルッツならどんな風に俺を抱いてくれるかな、とか。あのときのアレは気持ちよかったなとか……考えてると……」
「自分の指を使うのか」
「……」
 そうじゃないこともあったので、つい間を空けてしまった。それをルートヴィッヒが見過ごすはずもなく、
「なるほどな。道具を使ったこともあるのか。確かに、俺とのセックスでも道具は使うからなあ。しかし、俺の与り知らぬところで、兄さんがそこまで淫らな行為に耽るとはな。今後のメニューに色々と追加しておく必要があるようだ」
 怒っている風な口振りではあったが、どこか楽しんでいるようでもあった。
「なあ」
 もじもじと太ももを擦り合わせながら、ギルベルトはルートヴィッヒに伺いを立てた。
 視線はステンドランプ脇に置かれた写真立てへ注がれる。真夏に合わせた写真は、白い綿のタンクトップ姿のルートヴィッヒ。かちりとした軍服を脱げば、弟は見目同様の青年である。
 鍛え抜かれた肉体は、セックスに及んだときもその力強さを如何なく発揮してくれる。熱情に浮かされ、熱くしっとりと汗ばんだ肌をルートヴィッヒは押し付けてくる。体温が幾分低めのギルベルトにとって、その熱は愛すべき弟そのものでもあった。
「なんか喋ってくんねえ?」
「なにを、だ」
 写真の中の弟は、夏の日差しを受けて眩しそうに笑っている。気づけば、ギルベルトの右手は血管を浮き立たせているペニスを握り、激しく扱いていた。
 耳に押し当てている携帯へ、てらいもなく甘い吐息を吐く。
「なんでも……名前、呼んでくれるだけでも、いい」
「ギルベルト……ズボンが辛いだろう。脱いでもいいぞ。だが、下着は脱ぐな。つけたままで扱け」
「……っ、んっく、あ……ッ」
 左手は携帯を握り締め、右手ではペニスを懸命に扱いている。ギルベルトは束の間右手をペニスから離し、スリムなデザインのデニムを苛立たしそうに脱ぐと、両足を左右に広げた。これ以上ないくらいに溢れ出た蜜が、引き締まった下腹の下生えをたっぷりと濡らしている。
 しん、と静まり返った私室の中を、弾む息とクチュクチュと激しさを増していく淫らな水音が征服していった。
「んんっ……ル、ツ……ッ。ここ……ここ、に」
「ここ、とはどこだ。兄さん」
「言わすな、よ」
 頭を羽根枕へ深く沈ませながら、ギルベルトは腰を浮かせた。そこにルートヴィッヒはいないのに、まるで足の間に存在しているような錯覚が起きる。やわやわと内腿に触れてくる大きな掌、愛液をわざとあちらこちらに塗りたくなる変態じみた趣味。
 金属がぶつかる音がして、横を見ると、握っていた携帯電話が手から離れて枕元に落ちていた。くぐもった弟の声が「兄さん」と問う。
「ああ……ルッツ」
 答えたが、舌がうまく回らない。頭が痺れていて思考も纏まらない。ひたすら懇願しているのは、
「ルッツ、ここ、に……挿れて」
 携帯を手放した左手は、弟からの戒めを破って後孔へ伸びていた。左膝を腕で支えるように持ち上げ、伸びた指先は窄まった孔の周囲を何度もこねる。とろとろと零れ落ちている雫によって、窄まりに指先を挿入させただけで淫猥な音が弾んだ。
 右手は休む間もなくペニスを扱いている。腰はそれに合わせてゆらゆらと揺れていた。
 人差し指一本だけでは物足りずに、二本め三本めと指を増やしていったが、ルートヴィッヒの太さに比べれば比較にならない。ギルベルトは、きょろきょろと室内を見回した。
「……んと、確か前ンときにルッツが使ってくれたヤツ……アレ、どこにしまったっけ」
 最早、ルートヴィッヒと通話中だったことも忘れ去り、ギルベルトは宙に浮いた悦楽を満たすための性具を探した。
 サイドテーブルの一番上の抽斗に片付けたことを思い出し、さっそく取り出した。
「ルッツのが一番気持ちいいんだけど……今日はお前で我慢してやる」
 四つん這いになり、ディルドの先端を後孔に押し当てた。エラストマー素材特有の柔らかい質感は、ルートヴィッヒの硬さに慣れたギルベルトにすれば多少の物足りなさはあるものの、裡で動く蠕動はたまらなく気持ちよかったことを覚えている。
 ゆっくりと挿入を始め、キツさを感じる位置で手を止めた。指先でスイッチを探し、オンにする。裡をかき回すような蠕動で、一気に絶頂を迎えた。
「足りねぇ……もっと、もっとだ。ルッツ」
 ディルドを掴み、自分で注挿を繰り返したギルベルトはベッドが激しく軋むのも構わずに快楽の波を追った。何度目かの射精を終えると、目の前が白く霞んで見えた。羽根枕に突っ伏し、まるで短距離走でもしたかのように荒くなった呼吸を整えようと、ゆっくりと深呼吸をする。
 ルッツ、と呟いてから目の前に転がっている携帯電話を注視した。
「は?! あれっ。ルッツ? ルッツ?」
 愛液塗れのベタベタな手だったが、拭き取る余裕はなかった。
「悪りい、俺」
 沈黙が続いたので、呆れて眠ってしまったか、怒って通話を切られたかと思ったが、そんなことはなかった。
「兄さん……ひとりで随分と楽しそうだったじゃないか。サイドテーブルにバイブまで用意しておくとは、さすがだな」
「あ、あれは、だな。またお前と使いたいなあとか思ってて……っていうか、お前は?」
「俺が、なんだ」
 その声音は、兄の言いたいことを理解した上での切り返しだった。
「お前は……その、今の聞いてて勃ったりしなかったのか?」
 自分の恥ずかしい声や音を聞いて、興奮しなかったのかと聞いてみたのだが、ルートヴィッヒはあっさりと答えたのだった。
「俺は自分を抑えることができるからな。ただし、この欲求不満をどうぶつけるかは、そちらに帰ってから改めて考えさせてもらおう」
「……俺様、超怖ええ。……ん? どうした、ルッツ」
 シャワーを浴びようとベッドから下りると、携帯の向こうの様子がなにやらおかしい。着替えを準備しながら、ギルベルトはもう一度声をかけた。
「もしかして、眠ったのか? ルッツ。寝るんなら、ちゃんとベッドに入って」
「聞こえてる」
「繋がったまま眠っちまったのかと思ったぜ」
 ふ、と小さく笑う声が聞こえた。なんだよ、とギルベルトが口吻を尖らせる。
「“繋がったまま眠りたい”……兄さん」
 弟が口にした言葉の意味は、ギルベルトが発したものとはまったく違っていたけれど、否定するまでもない。ギルベルトも同じなのだ。
「やっぱ、お前。仮眠くらいしとけ、な」
 照れくさくてはぐらかした。
「わかった。電話を切る前に頼みがある。いいか?」
 散々言葉で人をいたぶっておいて、最後の最後で頼みがあるとくるのだから、弟とは侮れない。
 いいぜ、と軽く答えながらギルベルトは私室を出た。ドアの前でいつのまにか控えていたベルリッツ、アスター、ブラッキーの三匹が立ち上がる。ふさふさの尾を振りながら、シャワールームへ向かう主人の後に続いた。
「おやすみのキスが欲しい」
 ルートヴィッヒの声が少しだけ幼くなった。黙って立っているだけで凄まじい威圧感を放つルートヴィッヒ・バイルシュミットが、兄にキスをせがんでいる。
「わかった。それじゃあ、お前も兄ちゃんにキスしてくれよ」
 すう、と息を吸い込んで声を揃える。
「ein zwei kuss!」
 互いのリップ音をくすぐったく感じながら、通話を終えた。
「シャワー浴びたら、そうだな。ブログを更新させとくかな。やっぱ俺様の弟は超絶可愛いってな」
 遠く離れた日本のホテルの一室でも、同じことを考えている男がいるのだけれど、そのことには到底ギルベルトは気づくはずもなかった。








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