夏前のお昼過ぎは、蒸した空気が廊下を満たしていた。窓でも開けて空気を入れ替えればいいのだけれど、しとしとと雨が降っているため窓を開けるにあけれない。 雨は三十分ほど前から降りだしたもので、この調子だと近いうちに本降りになるかもしれない。窓の外を見ながら、そんなことを考える。 そう大して広くもない宿屋を、フィンネル・ラーファは辺りをきょろきょろと見渡して歩いていた。彼の部屋をノックしたけれど反応はなく、もしやと思って食堂を覗いては見たものの姿はなかった。そこにいた数名に彼のことを聞いてみたけれど、皆が首を振るだけであった。まだ風邪が完全に治ってはいなかったから、てっきり部屋で養生していると思っていたのけれど。 この宿屋はメンバー十数人が一堂に会しても座席に余裕があるほど広い食堂があるのはいいけれど、そのスペースが広すぎたのか、食堂と各寝室を除いての施設が一つもない。だから、彼が行く場所と言えば食堂か自室か、ということに限られるのだけれど、その二つ共に姿がない以上、宿屋にはいないということだろうか。 他メンバーの部屋を訪れている可能性もあったが、そのときにお邪魔してまで言うようなことでもないので、その場合は諦めよう。 「あれ、何やってるんだい、フィン」 「……ぁ、マスター」 最後にもう一度、二階にあった彼の寝室をノックしていたフィンは、階下から上がってきた、ギルドマスターであるティリア=フランツに声をかけられて振り返った。 「ん、ちょっと、シャルに用事があって」 「シャルに? そーいや、朝から姿を見てないね。風邪引いたままほっつき歩いてるのかい?」 「……約束、あったのに」 「なんだい、デートの約束でもしてたのか」 流石に屋内では外しているのか、彼女のトレードマークであるマジェスティックゴートにいつもは隠されている彼女の赤髪を揺らしながらマスターは快活に笑い飛ばした。そんなティリアの軽口に、しかしフィンは微かに揺らぐこともなく、平然と首を振った。 「ジュノーの修理工に武器の修理を出していて、今日とりに行く予定だったの」 「……あんた、ほんとそういうとこピクリとも動かないね」 「?」 ティリアの乾いた声に、小さく小首をかしげるフィン。 これなら、まだアリサのほうが可愛げがあるかぁ、などと、妙に親父くさいことを考えながら後ろ髪をぽりぽりと掻くティリアは、ふと、何かに気づくことがあったのか、視線をフィンから外して窓の外を見やった。 「あー……待て、よ?」 「……?」 「…………そうか、今日はあの日か。こりゃ、シャルは夕方まで帰らんかも知れんね」 窓の外を追うティリアの視線はどこか物遠く、フィンはそれ以上言葉を重ねるのに少しためらう。 ティリアの視線の先では、小ぶりだった雨が、本降りへと移り変わろうとしていた。 額に張り付く重い前髪で、ようやくフィーシャル・パスは我に返った。額の裏で、まるで脳みそが鉄屑になったかのように、がんがんと暴れる音がする。 いったん気づいてしまえば後はどうしようもない。水気を吸い取り重くなってしまった髪も、肌にべったりとくっついているぬれた布地の感触も、頬を濡らす長雨の冷たさも、何もかもが全て気になってしまう。今まで気を失っていたのだろうか。夏風邪もまだ完全に治りきってはいなかったのに、これだけ雨に打たれればしょうがないことでもあるのだが。 聖書を携帯していなくてよかった。ふと、そんなどうでもいいことを思いながら、シャルは空を見上げた。 見上げた空は何処までも何処までも黒く暗澹とした雲に覆い隠されていて、たった――――いや、もうたったとはいえないか。かれこれ二時間、ここにぼんやりと座り込んでいたのだから。その二時間前までは確かに晴れていた空は、まるでふと思い出したかのように急にぐずついた空となり、そのまま長雨となってしまった。 雨が降り始めて、既に三十分。気づくには、あまりにも遅いといえる。 荒れ果てた、町の郊外にある昔は教会だった跡地。崩されてもう十年ぐらいたつというのに、瓦礫さえ撤去されず、まだあっちこっちに崩れたオブジェのように散乱していた。 下は扉があっただろうと推測される位置には、腐れ朽ちた元は扉だったと思われる木材が打ち捨てられ、その木をまたいで奥へ進めば、これまた同じく朽ち果てた木製の元は椅子だった残骸がまだ綺麗に並んでいる。倒壊されたのは周りの壁や柱だけであって、内装まで崩されてはいないのだが、十年という月日は建物には長すぎる。 雨や風、雪などに浸食され、この廃教会に残された唯一の形を保っているものは、奥に備えられた祭壇だけであった。 その祭壇に、シャルはずっと座り込んでいた。神へささげる祈りの言葉も無く、祭壇の前に跪くことも無く、片膝を抱きかかえ、その祭壇に尻を乗せ片足を投げ出して座り込んでいた。 祈る言葉も無く、聖書も無く。シャルは亡羊とした気持ちで、望んでもいないのに吹き抜けにさせられた荒れ果てた教会の中心部に座り込む。 今まで十年間の中で、雨が降ったのはこれが初めてか。 服越しにわかる、自分の長すぎる髪の重さを背中に感じながら小さく呟いた。十年。それは決して短くは無い月日で、そして、ある程度心境を移り行かせるには十分な時間。 だが、彼にとってその十年とは、ただ髪を伸ばし続けただけの結果でしかなく。 この日、この時。彼は毎年、その十年前へと戻る。戻るために、ここへ訪れる。 荒れ果てた教会に座り込む一人の聖職者。 傍から見れば、それは絵画にすべきである神秘的な光景だったかもしれない。あるいは、聖なるものをまつるべき場所である祭壇に、それを踏み躙るかのように座り込むプリーストとして、背徳的な、倒錯的な情感を与える絵画として。 しかし、そんな彼を見つめる者はおらず。そんな彼を書き留める者もおらず。 町の中心に合ったこの教会は朽ち果て。そして、それが放射状に感染したかのように同じようにすべからく朽ち果てた町の中。 シャルは、空を見上げていた。 全身はとうに濡れぼそり、体は芯の奥まで冷え切っている。体の奥で疼いていた微熱は雨のせいで更に熱を上げ、彼自身は気づいていないかもしれないが、極度に冷え切ってしまっているせいでもはや手足の末端の感覚はあまり残っていない。 一度も雨が降ったこと無いから少し気を抜きすぎていたか。夏の夕暮れのはずの今までの記憶を思い出し、あの時はあの時で暑さを感じず同じように呆けていたなと小さく自嘲した。 今まで十年間。ここにきて何を得たのだろう。そもそも、ここへ帰ってきて、自分は何をしようとしていたのだろう。 最初の一年目はここにくることすら出来なかった。ただ、恐怖だけが、裏切りだけが心の中枢を食らい尽くして、この近辺へ近づくことすら出来なかった。 次の年は、この町の入り口に立っただけで、踵を返した。奥へは入れなかった。あの時はまだ朽ち果てはしていなかったものの、倒壊した門をくぐる勇気は無かった。 三年目は、この教会の元までたどり着いた。しかし、崩れ落ちた扉をくぐることは出来ず、ただ、門へと至る石段で座り、時を亡羊と過ごした。 四年目は、門をくぐれた。そして、祭壇の前で膝を折った。祈る言葉はなかった。聖書もなかった。それでも、跪いた。そして、罵倒した。 五年目は、祭壇の上に腰掛けた。何を思うわけでもなく、ただ、茫洋とした心のまま、何を踏み躙る気も冒涜する気も無く、普通にベンチか何かに座るように、腰を下ろした。 六年目以降、彼はここに座り続ける。とりわけ、何も思わないまま、何も感じないまま。夏の暑さにうなだれることなく、暑さなんて感じることすら出来ず、何処か遠くで鳴く蝉の声を耳の奥にこだまさせながら、子供のように、幼子のように、膝を折り曲げ、抱き抱えていた。 もう、いいか。 シャルは気づけば下げていた視線を、再び空へと向けた。空から振り落ちる雨が彼の顔面をぬらす、が、もう全身ぬれていないところを探すほうが難しい状況では些細な顛末であった。 顔を天に向けたまま、昔は大きな神像があったその教会の内壁を見つめながら、天蓋を覆っていた大きくて豪奢だったステンドガラスがあった天上を睨みつけながら、シャルは静かに、瞼を閉じた。 これ以上、何も見たくはなかったし、これ以上、ここでもう何も目には映らないだろう。心にも響かないだろう。 ここは、終わった場所だから。 信仰も想い出も真理も温もりも敬虔も裏切りも何もかも、全て失われた場所だから。 もう、自分はここでは何も心には思い描けない。いや、それは既に、四年目に気づいていたことであった。あのときに、悟っておくべきことだった。 六年。引きずりすぎた傷痕。スティグマとなって心の奥底に刻み付いたその傷痕は、彼は癒すことなく、悪化させることなく、ただ、蓋をした。 茫洋とそれを看過した。亡羊とそれを是とした。何も、感じなくした。 信じるべき信仰は無く。全ては理論付けられた人間のシステムであり。 疑うべき裏切りは無く。全ては肯定され尽した人間の本質であり。 幼すぎた自分にはわからなかった傷痕。十年経った今、おそらく今でも理解できていない傷痕。 それでも、もう引きずるには長すぎた、血の痕。 だから、だろうか。 「……ん、風邪引き、見つけた」 信じるべき信仰は無く。全ては理論付けられた人間のシステムであり。 「……え?」 疑うべき裏切りは無く。全ては肯定され尽した人間の本質であり。 「――――っ!?」 「体……冷たい。聖魔法、風邪には聞かないって、シャル、自分で言ってたのに」 だからこそ、本来はありえない光景であった。 彼を見つめる者はおらず。彼を書き留める者もおらず。それが条理。それが道理。 しかし、それを打ち崩す声が、背後からかけられた。 「な――――何故、ここに」 「何となく……ん、嘘。マスターが、ここだって」 奥の、神像が飾られた方向ばかり見つめていたせいか。長く続き、もはや完全にBGMとして脳奥に刻み込まれていた雨音のせいか。それとも、茫洋/亡羊とした心が周りを遮断していたせいか。 振り向くことが出来ないまま、背中に感じる、雨にぬれた自分の髪の毛だけではない重さを感じた。 「雨。降ってる」 遠く聞こえていた蝉の声。 近く聞こえていた雨の音。 「君は馬鹿か。わざわざこんな雨の中やってきて、風邪で倒れるつもりか」 「ん。それなら、シャルも」 そして、傍で聞こえる、少女の声。 そして、体で感じる、雨とは違う冷たさ。 「……帰ろ?」 「……何も、聞かないんだな」 自分の胸の前に回された、普段は豪奢な鎧に包まれている華奢な細腕を見ながら、後ろから聞こえる声に呟く。その呟きは、周りで降っている雨音にさえ打ち消されそうなほどか細くて。 その自分の声に、シャルは顔をゆがめた。 心の中で、吐き捨てる。 何だ、今の声は。まるで、雨の中捨てられた子犬のような声で。 「ん。言いたいなら、聞く」 「……いや、いい」 無防備なんだ。無防備すぎて、わけがわからない。 シャルは自分の両肩から胸へと降りていた手を気遣うことなく、いきなり前動作無く立ち上がった。咄嗟に後ろから抱きとめられていた手が離れるも、今まで散々長雨にさらされていた体は彼が思った通りには動いてくれず、彼は立ち上がって一秒もしない内に、またその場に腰を思い切り打ち付けてしまった。 熱のせいで朧になっている思考が、更に渦巻いて、頭をゆがませる。 「……なぁ、フィン」 「ん」 自分を後ろから抱きしめていた少女――――フィンネル・ラーファの名前を呟いた。 熱のせいで茫洋とした思考は、もはや今現在の彼の状況など一切省みなかった。たとえそれが、押し撥ねる結果となって座り込んでいたフィンにちょうど背中から寄りかかるようにしりもちをついてしまっていたとしても。倒れこんだその頭が、フィンの胸元で抱きしめられていたとしても。まるでその格好が、親にあやされている子供のようであったとしても。 シャルは、立ち上がる気になれず、雨空を見上げた。 「僕は、奪われたんだ」 「ん」 彼の双眸に映ったのは、雨空ではなく、自分を見下ろす少女の双眸。 ショートカットの髪が雨にぬれ、彼女の普段の静謐の表情を隠している。ちょうど膝枕のような体勢になったまま、シャルは空ではなく、今度は少女の顔を見上げ、 「僕は、奪われたんだ……っ!」 「……ん」 ぎゅっ、と、双眸を閉じて、続けた。 フィンの髪から、頬のラインを通り彼女の白く細い顎から、いくつもいくつも雨滴が滴れる。シャルはそれを顔に受けながら、顔を水滴で濡らしながら、もう一度だけ、繰り返した。 疲れ果てたように、呟いた。 「僕は……奪われ、たんだ」 「……ん」 多くは語らず。追求はせず。ただ小さく、雨音のように相槌を打つ少女。 目を開く。映るのは、少女の顔。静かにこちらを見つめてくれる、自分を抱きしめてくれた、少女の顔。 「……」 「……シャル?」 思ってしまった。 たとえ、熱のせいで思考が歪み狂ったせいだとしても、今はただ、こう思った。 雨にぬれた彼女の笑顔は、とても、綺麗だと。 「……フィン」 「ん?」 雨はやまない。冷たさは変わらない。 けれど。 「ありがとう」 「ん」 何故か、今だけは、神が見守ってくれていると、感じた。 今更表に出すのもどうかと思ったので。Strange Days、第六幕。「雨蝉、無音。」です。 これ書きとめてたメモ帳の更新履歴見ると、2006年8月3日とか書いてました。そっか、もう4年前になるんだ。あんま文章変わってないなー、とか、ちょっと自分で笑ってしまった。 |
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