涼宮ハルヒに出会ってからの俺といえば妙な事件やらけったいなイベントに自分の意思とは関係なく巻き込まれ続けその都度あちこち走り回るはめになっているわけだが、かといって年がら年中息つく間もなくそういった事態に遭遇しているかといえば実はそんなことはなく、例えば平日の放課後なんかは未来型癒し系メイドな上級生の淹れる茶に舌鼓を打ちながら読書に耽る寡黙な美少女宇宙人を眺めたり、秘密組織所属のイケメン超能力者とゲームで対戦したりと、揃っている面子にしては拍子抜けするほど普通で平和な時間を文芸部の部室で過ごすことだってあり、むしろ比率にすればそっちのほうが圧倒的に多いのである。
 果たしてそれが学生生活における健全で有意義な課外活動かと問われれば大いに疑問が残るものの、身に染み付いた習慣とは恐ろしいもので、その日最後の授業を終えてHRで担任の話を適当に聞き流し掃除を終えて鞄を引っ掴んだ後は自然と足が部室棟へ向ってしまうことに最早何の疑問も感じなくなった今日この頃。
 つまりはいつも通り、団活動に参加するべく部室の前までやって来たところだ。
 トントン、とノックを2回。
「はぁい。どうぞー」
 どことなく舌っ足らずで蕩けた声が扉の奥から聞こえてきた。入室許可を得られたということは、着替えも終わってらっしゃるようだ。
「ちわっす」
 果たして本日はメイドかナースか。
 地面スレスレまで鼻の下を伸ばす勢いで本日の朝比奈さんの御姿を予想しつつ、俺は軽く頭を下げながら部室のドアを開けた。




『いたずらとおしおきと -朝比奈みくる編-』




「――えいっ」
「うおっ? ……?」
 足を踏み入れるなり可愛らしい掛け声と共に、パスンっと心地良い炸裂音を立てて何かが俺の脳天を直撃した……が、それとは裏腹に感じる痛みは全然なく、何事かとキョトンとしつつ頭を上げてみれば、
「えへへ、びっくりした?」
 目の前には無邪気に微笑む、メイド姿の朝比奈さん。
 急須より重いものは持てませんと言われれば素直に信じてしまいそうなその細腕の先の小さな両手に握り締めている、俺を襲撃したと思われる物体は……
「ハ、ハリセン?」
「うん。なんかね、涼宮さんの机の上に置いてあって」
 そう言って、団長席を指差す。
 考えるまでもないな。こんなしょーもないアイテムをわざわざ用意する奴はハルヒしかいないだろう。どつき漫才でもやるつもりかっての。
 にしても、まさか朝比奈さんに不意打ち食らわされるとは夢にも思わなんだ。
「いきなりごめんなさい。あの、怒った?」
 今更ながら不安げに、上目遣いで俺を見る朝比奈さん。
「いえ、そんなまさか。ビックリはしましたけど」
 許すどころか、あなたにでしたらもっと強く叩かれたうえにそれが鼻先から鮮血をぶち撒けるような顔面強打だったとしても、満面の笑顔を浮かべ続ける自信があります。
 ……変な趣味持ちかと思われてしまっても困るので、そんなことは言わないけども。
「ふむ」
 とはいえ。
 怒りの代わりというわけでもないが、別の感情なら、こう、沸々と。
「ちょっとそれ、貸してもらえます?」
「あ、はい」
 俺が手を差し出すと、すんなり手渡してくださった。
 さて、と。
 端的には「あははーこいつぅ、やったなぁ?」。所謂ひとつの若気の至り。予期せず巡ってきたこのチャンス、と言っていいものか。俺だって可愛らしい女の子とキャッキャウフフしてみたい、くらいの願望は持ち合わせているのである。
「朝比奈さん。今入ってきたのが俺じゃなくて、ハルヒや長門や古泉だったらどうしてたんです?」
「ほえ、」
「いやそれならまだ仲間内のじゃれ合いで済みますけど、これがもし突然訪ねて来た客人だったら、見知らぬ誰かにいきなり殴りかかってたところですよ?」
 まあ実行犯がハルヒならまだしも、朝比奈さんであれば誰もが笑って許すだろうけどな。それにこの部屋における俺達以外の面子との遭遇率なんぞ、竜探しの物語に出てくる鋼鉄の軟体生物よりも低いだろうから、そもそもこんな心配自体が無用である。というか俺がもし朝比奈さんの立場だったら嬉々としてハルヒや古泉あたりを待ち構えてるところだ。
 そんなわけでいちいちこんな言い訳しなくたって御理解頂けるだろうが、間違っても大真面目に叱りつけようってわけじゃないぞ、と。
 ぶっちゃけ、触発されてちょっとハリセンを使ってみたくなっただけってのもある。
「いきなり人を襲っちゃいけません。おしおきです」
「あう、すみません。あの、でもねキョンく……」
 ぺしん。
「ひゃんっ?」
 何か言いかけたのを遮って、一振り。構造上痛みを感じないように出来ているとはいえ朝比奈さんの頭を叩くなどという所業は俺の本能が拒否したため、お尻に軽く一撃。
「さあ、あと99回」
 お仕置きといえば、百叩き。
「そ、そんなに叩かれたら真っ赤になっちゃいそう……」
 眉尻を下げながらそんなことを言いつつも、まるで叩きやすくしてくれたかのように横向きでお尻を突き出す体勢になる。……叩いていいんですか?
「冗談ですよ」
 目の前に差し出されたそのスカートに包まれている女の子らしい美曲線をこのまま眺め続けていても妙な気分になってしまいそうだったので、自然に笑い返せる精神的余裕があるうちにハリセンを返しておく。
「まあでも、ホントに気をつけてください。機嫌が悪い時のハルヒにうっかりこんなことしたら、後々どうなるか」
 強いて心配事があるとすればそれくらいだな。閉鎖空間云々よりも、報復で朝比奈さんがどんな目に遭わされるかのほうが不安だ。
 って、考えてみたらそういう意味じゃあいつの機嫌に関わらずハルヒを襲うこと自体が危なかったな。本当に俺で良かった。
「そんなに心配してくれなくても大丈夫ですよう」
 心外だとばかりに、頬を膨らませてそう言い切る。自信満々とは珍しい……と言ったら失礼ではあるが。
「キョンくんのノックの音なら絶対に間違えないもん。最近は足音だけだってキョンくんが来たの分かるんだから。お姉さんのこと、あまり馬鹿にしちゃめーですよー」
 手を後ろに組み、おすまし顔でふふーんと胸を張る朝比奈さん。
 ……そりゃ、凄いですね。
「あう、反応が薄い……もっと驚いてくれると思ったんですけど」
 本当に分かるんだけどなぁ……と呟きながら、しゅんと肩を落とす朝比奈さん。
 いや、こう見えて半開きの口を閉じられない程度には驚いてるんですけどね。
 なんでそんなことが出来るんだろう。未来的な何かが作用している能力なんだろうか。
 だとすれば、訊ねたところで「禁則事項」というお決まりの言葉しか返していただけないんだろうな。




「……あれ? 角っこ取っちゃっていいんですか?」
「!? うわ、やっちまった!」
「えへへ、やったぁ」
 凡ミスで側面片方を白一色に塗り替えられてしまい、思わず頭を抱え込む。こりゃあここから勝つのは難しいか?
 ……いやいや、まだ勝負はここからですよ!
「ふふ。頑張ってね」
 対戦相手だというのに、柔らかい笑顔で応援してくださる朝比奈さん。敵に塩どころか、真新しい布団と低反発枕まで頂いてしまった気分だ。今の俺は上杉謙信女性説を全面的に支持したうえで、新たに童顔巨乳の美少女説を提言してもいい。
 てなわけで俺は朝比奈さんと部室に2人きり、オセロで暇つぶしをしていた。
「にしても来るの遅いですね、あいつら」
 しれっとそんなことを言いつつ、もう少しこのまったりとした和み空間を味わっていたいのが本音。飲むお茶、ゲームの対戦相手、視界の先、全てが朝比奈さんづくし。なんと心地良い空間、ああ素晴らしきこの世界。
 このお方、自分の手番が回ってくる度に指を顎に当てて迷子の子犬みたいな呻き声を漏らしつつ考え込んでたり、ふんふんと息を漏しながらほくほく顔で駒をひとつずつひっくり返したり、逆に俺がひっくり返す時は脇腹を突っ突かれたみたいな嬌声を上げていらっしゃっていてだな。どこまで小動物系なんだ、と。可愛すぎだ。写真付きの観察日記を付けるにはどこの許可を取ればいいんだろう。
 とはいえ他の面子が中々来ないことが気になっているのも事実。長門まで一向に姿を見せないのはどういうことだ。
「え、あれ? ……あっ、そっか」
 俺の漏らした疑問に不思議そうな顔を向けたかと思えば、次の瞬間にはハッとした表情で手の平を叩く朝比奈さん。
 どうしました?
「えっとね、長門さんは私と入れ違いで図書室に本を返しに行くって出て行っちゃって、涼宮さんにそれを伝えたら長門さんを呼んでくるーって行っちゃって、2人ともそれっきり。古泉くんは用事……あ、今日は“アルバイト”じゃなくてお家のほうで用事があるらしくて、どうしても外せないから欠席するって、顔だけ出して帰っちゃいました」
「……あー」
 こりゃあ長門のやつ、返したついでに次に読む本を探し始めたらうっかり立ち読みモードに入っちまったな。で、ハルヒはおそらくそんな長門と現在奮闘中とみた。頑張れよーハルヒ、本を読んでる時の長門は単純な力技じゃ動かせないぜ。
 古泉はどうでもいい。ハルヒ絡みじゃないなら尚更だ。
「キョンくんが来たらすぐに伝えるつもりだったんですけど、言いそびれたまま忘れちゃってました……私ったら」
 恥ずかしさ半分、申し訳なさ半分くらいの表情で身を縮こまらせる朝比奈さん。
 そういった仕草やお惚け具合、目に映る全てが愛らしくて撫でくり回したくなる。いつぞや古泉が言っていたが、もし朝比奈さんが本当に俺を篭絡する為にやって来た未来からの刺客ならば、むしろ全力で策に嵌りにいくことだって厭わない。据え膳食わぬは何たらかんたら。
「さあ、バッチコイですよ」
「ほぇ?」
「あ、いや、なんというか、実に朝比奈さんらしいですね」
「うぅー……なんかそれ、お馬鹿さんって言われてる気がします……」
 俺は可愛らしいという意味合いを込めたつもりだったのだが、どうもお気に召さなかったようだ。
 さり気なく褒めるのも難しいもんだと肩を竦めつつ湯飲みに手を伸ばし、
「……あ」
 口をつけて啜ろうとしたところで、中身がもう殆ど残っていないことに気付いた。
「あ、淹れてきましょうか?」
 申し出に甘え、お願いしますと湯飲みを差し出す俺。
「はぁい。お姉さんがすぐ持ってきてあげますからねー」
 今しがたの俺の反応をやや気にしているのか、お姉さんの部分をやや強調してわざとらしく年上ぶるようなことを言って、朝比奈さんは立ち上がって湯飲みを受け取り、急須が置いてある部屋の隅へ向かうため俺の横を通り過ぎて行く。
「…………」
 視界の端で朝比奈さんの後姿を捕らえた時にはもう、条件反射だったというか。
 思うに、朝比奈さんと部室で2人きりという滅多にないシチュエーションの中で色々と考えすぎて、俺のテンションもおかしくなっていて魔が差したんだ。
 ともかく何かに操られるが如く「いたずらしなければ」という謎の使命感に捉われた俺は、机の端に放置してあったハリセンを手に取り朝比奈さんのお尻目掛けて――
 ぺしん、と。
「ひゃあっ?」
 ピンと背筋を伸ばし、硬直する朝比奈さん。両手で湯飲みを持っていなければ、後ろ手にお尻を庇っていたところだろう。
「油断大敵です。隙だらけですよ、密室に若い男女が2人きりなんですから気をつけないと」
 やってることが、ただのセクハラオヤジっぽい気がしないでもない。
「み、密室って……キョンくんを警戒なんてしませんよう」
 困ったような口調でそんなことを言いながら、朝比奈さんはポットの前に辿り着くと手際よくお茶を淹れる準備を始めた。
 もしかして、警戒する必要がない男と思われているのだろうか。草食系的な意味で。
 それはそれで男としてどうなんだろうとモヤモヤしつつその後姿を眺めていると、
「あの、キョンくんは小さい頃、叱られる時にお尻を叩かれましたか?」
 手を動かしながら、朝比奈さんが訊ねてきた。
「んー……いや、殴られるのはしょっちゅうでしたけど」
 尻叩きをされた記憶ってのは無いな、言われてみると。妹がやられている場面に遭遇したことも無い。我が家の躾け方法は尻叩きよりも拳骨主義だったらしい。最近の風潮じゃそんなことをすれば体罰とか言われて犯罪者みたく扱われちまうみたいだが、大抵の場合は大げさだよなぁ。朝比奈さんの元の時代では、その辺はどういった感じなのだろう……と、話が少しズレたな。
 実際に行われた刑罰としての百叩きはともかく、なんだかお尻を百叩きってもの自体がフィクション上の産物、もしくはある種の都市伝説的なものなんじゃないかと俺は思ってるんだが。
「朝比奈さんはどうでした?」
「叩かれたこと? ふふ、ありますよー」
 甚だしく意外だ。朝比奈さんが悪さをして親なり先生なりにお仕置きされている姿ってのが、丸っきり想像できない。何をやらかしたんだろう。
「部屋に入ってきた後輩の男の子の頭をいきなり叩いちゃったんだけど、そしたら危ないからいけませぇーん、ぺしんっ。って」
「へえ、そうなん……ん?」
 それってついさっきの出来事じゃないか。
「はい、どうぞ」
 湯飲みを俺の手前に置きながら、クスクス笑う朝比奈さん。
 あわよくば幼少期のエピソードを聞けるかもという若干の期待が外れたのはともかく、自然にはぐらかされたのがちょっとだけ悔しい。
 というわけで、背を向けた朝比奈さんに……ぺしん。
「あきゃっ?」
 ぺしん、ぺしん、ぺしん、ぺしん、ぺしん。
「あっ、ちょっ、やぁんっ、キョんく、あんっ」
 紅潮させた顔だけこちらへ振り返り、妙に艶かしい声を上げつつも何故だか逃げない朝比奈さん。
「本当のところどうなんです?」
 ぺしん、ぺしん、ぺしん、ぺしん、ぺしん。
「あうっ、なん、んっ、何がですかぁっ? ひあっ、」
「ですから、叩かれた経験は」
 ぺしん、ぺしん、ぺしん、ぺしん、ぺしん。
「い、ぃ今たたた、叩かれてますぅっ、あきゃっ、」
 ごもっとも。
 ……いかん、愉しくなってきた。
「キョ、キョンくん、笑顔が涼宮さんみたいになってますよぅ」
 その喩えは具体的なんだか、抽象的なんだか。分かりやすくはありますけど。
 んっふっふっ、覚悟しなさいみくるちゃーん……なんてな。
 ぺしん、ぺしん。
「あっ、あっ、」
 …………。
「何やってんだ俺ーっ!」
 スパァァァァン!
「はぁぁあぅうっ!?」
「わあぁー!? すみません! ごめんなさい!」
「ふぁぁ……ぁ、っ」
 自分の声で脳内再生されたハルヒの物真似があまりにも精神的に不快だったせいで、セルフツッコミに思わず音声と動作を加えてしまった。
 具体的には、ハリセンを朝比奈さんのお尻めがけて勢いよく振りぬいた。
 そして俺は、一段とオクターブ高かった嬌声の後、事切れたような吐息を漏らした朝比奈さんの様子に、完全に気が動転していたわけで。
「調子に乗りすぎました! ホントすみません! 痛いですか!? ヤバイですか!?」
 だから神でも仏でも、何にでも何度でも誓おう。
 疚しい気持ちなんて、文字通り微塵も無かったことを。
「い、痛いの痛いのー! とんでけー!」
「あふぅ……へ、ふぇええええ!? きょ、キョンくんっ!?」
 ファンタジー世界の住人じゃなくても誰もが使用可能と思われるこの回復呪文には、とある行動が伴う。
「痛いの、痛いの、とんでけー!」
 そう。一心に快気を願いつつ、慈愛を込めて患部を摩りながら唱えるのが一般的だ。
「あああああの、大丈夫っ、大丈夫ですっ! ハリセンですから、全然痛くはなかったですから、びっくりしちゃっただけで……あうぅうっ、」
「痛いの痛いのとんでけー!」
「と、とととんでけましたっ! もう大丈夫っ、気持ちいいです! ……わきゃああ!? ちち違う違います、間違えましたっ、そうじゃなくてえぇえっ」
「とんでけー!」
「あっ、待っ、ホントに待って、ふあぁっ……」
「とああー!」
 もっとハッキリ分かりやすく言おうか。
 つまり俺は朝比奈さんのお尻を優しく撫で回した。そりゃあもう、心を込めて、じっくり、たっぷりと。
 繰り返すぞ、俺は本当に疚しい気持ちなんて無かった。錯乱していたとはいえ、これでどうにかしようと大真面目に考えたことへの言い逃れはする気もないし出来ないだろうけど。
 ああ、もちろん正気に戻ってから謝りたおしたさ。
 ごめんなさいと繰り返し這いつくばって土下座する俺を必死に起き上がらせようとする真っ赤な朝比奈さん、という光景を戻ってきたハルヒ達に目撃され、理由も聞かず一方的に俺が罪人扱いされ、因果応報とばかりにハリセンで叩かれまくってもそれを素直に受け入れ、もう二度とすまいと真剣に決意する程度には反省したつもりだ。
 ただ、結局朝比奈さんは何で逃げなかったんだろうな。
 朝比奈さーん? 別に取り押さえてたわけでもないんですから、嫌なら逃げてくれても良かったんですよー?








「……癖になっちゃったらどうしよう」
「ん? みくるちゃん、何か言った?」
「す、涼宮さん!? ち、違いますっ! 違いますからっ!」
「へ? 何が?」




(終)



ついでに一言あればどうぞ(拍手だけでも送れます)

あと1000文字。