林原実験工房(11)

     ショートショート三題噺「花の色は移りにけりな」【オリジナル】


 降り止まない雨音を御簾(みす)越しに聞きながら、式部大輔の二の姫は何度目かわからない溜息をついた。お付き女房の和泉が顔を上げて不安げな顔つきでこちらを見る。

「姫様、そのように溜息ばかりついていては体に毒でございますよ。そうだ、お庭でもご覧になってはいかがですか。御簾を少々お上げいたしましょうか」

 そう言って和泉が御簾をするすると引き上げる。父の指示でよく手入れされた庭が露わになる。降り続く五月雨(梅雨)に打たれて濡れそぼった草花の中で、紫陽花の花が一際目立っていた。

 思い返せば、姫の夫・左近中将が最後に訪ねてきた日もこのように五月雨が降っていた。その前に訪ねてきたのはまだ桜が咲いている頃だった。ずいぶんと長いこと訪問がなかったものだから、二の姫は明け方に帰宅しようという中将の姿に心が乱れ、その袖に取り縋って涙を流してしまった。

 その情けない姿に愛想を尽かされたのだろうか、あれから十日ほど経っても中将からは何の音沙汰もない。

 夫は左大臣家の三男で、姫より五歳年上の二十三歳にして早くも左近衛中将に任ぜられている。同じ年頃の今上帝が東宮(皇太子)だった頃から側に仕えていたとの話で、ゆくゆくは帝の片腕として大臣の地位まで上り詰めるのも確実とされている身である。

 そんな今をときめく公卿と姫が結婚することになったのも、学識を認められてようやく式部大輔(式部省の次官)に叙任された父に中将が漢籍の教授を請い、邸に通うようになったのが縁だった。
 
 元より家柄も地位も違う。望めばどんな縁談でも叶う中将だから、自分などが北の方(正妻)になれるなどと思っていたわけではない。ただ、会いに来て欲しい、それだけが望みだったのに。

 気怠げに庭を見やると、紫陽花が五月雨に打たれ、その花びらに水を蓄えるように受け止めていた。藤色の花を咲かせる中、薄紅色に移ろう花びらが視界に映って、姫は口ずさむように呟いていた。

  五月雨に落つる涙を受けぬれば紫陽花色と移りけるらむ

 和泉が「まあ」という表情で姫を見つめる。

「その歌を中将様に?」
「まさか。こんな恨み言をお送りすれば、それこそ愛想を尽かされるわ」

 でも、と思う。もしかしたらもう遅いのかもしれない。中将の元には連日のように縁談が届いているはずだ。既に自分よりも家柄も器量もよい姫君と結婚してしまったのかもしれない。そして、この邸にはもう二度と……。

 と、廊下のほうからどたどたと足音が聞こえてきた。騒がしいと思う間に新入りの女房が慌てきった様子でやってくる。

「何ですか、騒々しい。そのように足音など立てるものではありませんよ」

 和泉が女房を嗜めると、当の女房は恐縮しきった様子で頭を下げた。

「も、申し訳ございません。ですが、姫様、左近中将様から御文が……」

 姫は思わず和泉と顔を見合わせ、すぐさま女房が差し出した文を受け取る。紫陽花の枝に結びつけられているのが不安をかき立てるが、姫は直ちに開いた。

  紫陽花の色と心は変はらねど汝が五月雨を袖に拭かまし

 姫は目をしばたたいて目の前にある歌を何度も見返した。まるで、たった今自分が戯れに詠んだ歌の返歌ではないか。中将の夢に見えたにしても早すぎる。いったいどのようにしてこの想いが伝わったというのか。

「それと今宵、中将様がお渡りになるそうです」

 文を持ってきた女房が思い出したように付け加えた。

「それを早く申しなさい」

 和泉が「支度をしなければ」と言いながら女房を連れて慌ただしく出て行った。

 庭に目を向けると、いつの間にか雨も上がり、薄く差し込む光を受けて紫陽花の集めた露が鏡のように輝いていた。


お題「紫陽花」「五月雨」「鏡」(2009/06/14)



 拍手ありがとうございました!
 よろしければ一言、ご意見・感想などお願いします。お名前は任意で結構です。
 メッセージの返信はブログにて行います。返信不要の場合はその旨ご記入ください。

 尚、こちらの三題噺のお題も募集しています。リクエストがあれば、コメント欄からお送りください。




一言あればどうぞ(拍手だけでも送れます)
お名前
メッセージ
あと1000文字。お名前は未記入可。