『滲む空』
「俺はね、優しくなんてないんだよ」
そう笑っていた男の顔は、優しいと呼べるもので、その言葉の意味が最初は全く分からなかった。
その光景を見たのは、たまたまのことだった。
(あれは、小西先輩の――)
どこか離れていても目を引くその姿を見た瞬間、陽介は思わず電柱の影に身を隠した。
同時に聞こえた、耳に馴染んだ声。
「ふざけるな」
押さえた低い声。ここからは見えないけれど、その言葉と同時に鋭い眼光が目に浮かぶ。
シャドウと対峙するときにたまに見せる表情。
(月森…?)
そっとのぞくと、何時もどおりの格好で、明らかによそ者だと分かる者に向き合っていた。
その姿から見るに、もしかしたらメディアの記者なのかもしれない。
月森はそれ以上何かを言うそぶりはなく、一緒に細身の後輩を引っ張るように連れて行ってしまった。
その姿をぼんやりと見送る。
(うわ、完全びびってんな)
記者はピクリとも動かない。
確かにあの目で見られたら、慣れないものは竦んでしまうだろう。
(…あいつと、仲いいんだ)
二人の姿は角を折れてしまいもう見えない。陽介は知らぬ間に詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
『陽介、俺はね』
いつだったか、月森が言っていた。
『いらないモノと必要なモノの差がハッキリしているだけだよ』
月森の手は、あの細い少年の腕を掴んでいた。
陽介は思わず自分の手を見る。
それから、そっと目を瞑る。
(信じるな)
(ゆだねるな)
開きそうになっている心に、そっと注意を促す。
月森はすごいし、信頼はしている。だからといって、重要な部分は開くなと、最近繰り返している注意を小さく口にする。
「…行くか」
陽介は、何事も無かったかのようにバイトに行くために足を速めた。
「陽介」
「あ」
品出しを行っていれば、かけられた声に陽介はもうそんな時間だったかと思う。
声をかけてきたのは月森だ。手にはカゴを持っている所からも、夕飯を作るためにジュネスによったことが分かる。
(あいつは…こねぇか)
一瞬探るように周囲を見て、心の中で小さく息を吐いた。
元から直接の知り合いではない。それでも、お互いがお互いに正面から出会うことを避けていることには気付いていた。
「陽介?」
「お、わりぃ。今日の特売は茄子だぜ、先生」
いつもの軽い口調で肩を叩く。
だが何故か月森はじっと自分の顔を見つめていた。
「な、なんだよ」
「いや。疲れてるのかと思って」
「今日は品出し中心だから楽なもんだぜ。――ただ量は多いけどな。ま、沢山買っててくれよ」
まだ沢山ある品を確認して、早々に別れを告げる。
不自然ではなかったはずだ、と何故か一度指先が震えた。
一歩二歩。離れて息をゆっくりと吐き出そうとした瞬間、強い力で手首を握られた。
ぎょっとするような強さだった。
(あ)
一瞬、帰りにみた光景が目に浮かぶ。
だが、それよりもはるかに強い力だった。
「陽介、無理はするなよ」
「してねぇって。やーけど、このこの優しさが、お前がもてる秘訣なのかね」
軽口のように言えば、一瞬月森は黙る。
「優しくない」
「へ?」
「俺は優しくない」
「知ってる」
気付いたら陽介は呟いていた。ぎょっとして口を閉じようとするが、もう一言もれてしまった。
「俺は、たまにお前がこえぇよ」
「酷いな、陽介」
月森は笑う。手はまだ離れない。
気付けば、じっと、まるでシャドウを見るときのような鋭い眼光で見つめられる。
(こいつは、こういう表情が、似合う)
馬鹿だなと思う。
自分のことを、本当に馬鹿だと思う。
怒られることも、冷たくされることも苦手だというのに、その瞳をじっと見てしまう。
それでも自分はシャドウではないし、月森の瞳もそれを見るときとは僅かに違う。記者を追い払ったような眼力とも、多分違う。
喉が妙に渇く。
視線が逃げる。落ち着かない。逃げ出したいがつかまれた腕がそれを阻む。
「陽介」
「…何」
「俺はね、追い詰めるのが好き」
「……性格悪」
「うん」
「そこで嬉しそうな顔ですか」
「褒め言葉だろ?」
手の力が弱まった瞬間、陽介の脳裏にあの少年の姿が浮かぶ。
「なぁ、お前さ――」
だがそれ以上言葉は続けられなかった。
取り繕うに、にこりと笑うと、月森の瞳が更に険しくなった。それに心の奥底が跳ねる。
「やっべ。何を言おうとしたか忘れちまった」
「じじいだな」
「うわ、手加減ねぇ!」
「がっかりだ」
「がっかり言うな!」
笑いながらの軽口にのってきたことにほっとする。
「けど、俺は記憶力がいいから忘れない」
「っ」
「お前が、初日に自転車でこけていたこともな」
「…それは忘れてください」
手をふり去っていくと思わせた男は、一度振り返り笑った。
「お前、俺にわざと嫌われようとするなよ」
一瞬にして、顔に血が上った。
「お前じゃ無理だ」
逃げるように人気の無い商品棚へと駆け込んだ。
(あいつが)
小西先輩の弟が、とても信頼しきった顔で、あいつを見ていた。
最初は自分を見るのと同じように、刺々しい表情だった顔が。
(俺も、あんな情けない顔をするんだろうか)
それはないと思った。
自分は、彼に好かれたくは無い。彼に心を決してひらいてはいけない。
(あいつが欲しいのならば、側にいたいのならば、決してあいつを好きになってはいけない)
陽介は暫くその場に立ち尽くした後、よろけるような足取りで品出しの続きをするために戻っていったのだった。
たまに本気で、徹底的に、陽介が逃げ惑う隙もないほど先生に追い詰めて欲しいと思うのであります(重症)ちょっと分かり難い雰囲気小説ですみません…
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