お礼文 D灰
薫香が漂う。伽羅か沈香か。はたまた白檀か桃か。足音が追いついてきて、ルベリエの隣に並ぶ。その気になれば衣擦れの音もなにもかも遮断できるのだ。そうしないのはひとえにルベリエのためなのだと知っている。
「あの年頃には甘いな」
ミサキ、と呼びかければ柔らかなため息がひとつ。
「閣下とて、甘くしようと思えばできるでしょうに」
仮にも育てたことがおありだ、とミサキは続ける。その白皙は仮面に覆い隠されているが、声はありありと不満を――ルベリエへの隔意を伝えていた。
たしかに育てはした。ミサキの妹たちだ。姉だって育てたし兄だって育てた。弟だって。決して逃げぬように。子どもたちは人質であり贄であった。チャンの娘とルベリエ一門の男を縛るための、生きた鎖。
――だが
あの子たちは、死んだ。いいや殺された。神なるモノに。無垢の名を冠したモノに。ルベリエも同罪だ。一門のために贄を差し出したのだから。
「したところでどうなる」
「壊すことはありますまい」
珍しく粘る。ミサキは『鴉』。その筆頭である。三本脚の鴉であり、彼は兄が死んだことでその地位を手にした。黒の教団の正義とは程遠い所業は飽きるほどみてきたし、従ってきたはずだ。己とて幼い子を――つくられた紛いもの
実験台に送り込んでいた。ルベリエもミサキも正義に背き、屍を積み上げてきたのである。
――それほど哀れだったか
リナリー・リーが。壊そうなど意図していない。立ち上がってもらわねば困るのだ。恐怖に訴えかけてでも。
使徒が減ったのだから。教団本部、その深部を歩みつつ、ミサキの手元をみやる。『鴉』であり『使徒』。ミサキでありアリエス。二つの仮面を使いこなす、ルベリエの仔羊。神から与えられたのは裁きの炎――銘を『神炎』。
「あのまま餓死させるわけにはいかん」
「料理長に任せればいい。あの子は雛です。守ってやらねば死んでしまう」
それくらいわかっている。わかってはいるが、あまり時間がない。一年か二年は時間を稼げるだろうが……。
「――鍵のお方か、緋のお方か?」
「どちらもだ」
余人のいない通路。しかし声を殺す。ミサキにしか聞こえないように。
「……焦れておられる」
「ろくでもない坊主どもが」
侮蔑も露わな言を、ルベリエは肯定も否定もしなかった。世界最大の組織を束ねる教皇。その下の枢機卿。黒の教団は彼らの私軍である。戦場など知らず、世界の秩序のためならば平気で倫理など踏みにじる。
――使徒など
彼らにとっては駒でしかない。ましてや亜の娘なぞいつでも処分できるのだ。適合者の候補は何人か隠し持っているのだろうから。
「尊い方の尊い犠牲で世界の平和を贖っていただきたいものだ」
「のっぴきならなくなれば、な」
ふ、と笑みが浮かぶ。最後の最後。適合者――あるいは候補がいなくなれば迫るのも一興だ。さんざん仔羊を贄にしてきたのです。聖なるお方、選ばれたお方。父なるお方よ。
その尊い血でもって、愚かな民をお救いくださいと。
「ともかく」
抑えた声音でミサキが言う。
「閣下はあの子に近づかないほうがよろしいかと。泣きますよ。いや泣いてましたよ」
「…………塵を見るような眼はやめんか」
仮面で隠されていようがわかる。青とも緑ともつかぬ眼は、ルベリエへの批判で刺々しいのだろう。
「あなたは色々と下手なんですよ。巧いのは策略と菓子づくりくらいだ」
「悪かったな」
忌々しい男である。どれもこれも間違っていないからよけいに腹が立つ。
「心身の治療が先です。上つ方はあなたのほうでなんとかしてください」
どうせ醜聞のひとつやふたつ握ってるんでしょう、と遠慮がない。
「さてな。恐れ多いことを言うな。ミサキ」
扉に手をのばそうとして、ミサキに先を越される。紅い袖が揺れ、路は開かれる。
「あの子に菓子でもつくってさしあげるとよろしいかと」
「嫌がらせだろう」
自分が畏れられ、嫌われていることくらいわかっている。リナリー・リーにとってルベリエは悪の象徴であろう。どこぞの鴉と違って。
「料理長からだと言えばなんとかなりましょう。それで――」
ほがらかに、ミサキは問うた。
「室長の首、いつすげ替えるおつもりで」
2021.05.07
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