家路を辿る足は、気のせいかいつもより軽く感じられた。
社会人になってまだ間もない私は、早速世間の荒波というものに揉まれていた。更に、不況の煽りを喰らって、荒波というよりも大津波に飲み込まれているような気もする。サービス残業なんて当たり前であり、別段そのことに不満はないのだが、体力的にきついものがある。下手をすれば徹夜なんて当たり前、それでも自分で選んだ仕事なのだから遣り甲斐があるのも確かだった。
今日は珍しく仕事を定刻通りに終えることが出来た。更に言うなら明日は久々の休みだ。テンションが上がるのも仕方がないだろう。更に、帰り道に寄った本屋に売られていたものによって、そのテンションは急上昇した。それは戦国無双3の真田幸村のフィギュアであった。元々歴史系のゲームに興味などなかったのだが、友達の薦めにより戦国無双をプレイしてどっぷりとはまってしまったのだった。viiなどという高価なものは持っていないので3はプレイしたことはないが、ニヤニヤ動画でプレイ動画を見たことはある。
その中でも特にお気に入りの真田幸村のフィギュアを見つけたときは、思わずガッツポーズをしそうになったほどだ。だから、迷わずにフィギュアを買い、ほくほくとした気分で家路に着いているのだった。


「ただいまー」


子供のときからの習慣で、誰もいない我が家に声をかける。その声も上機嫌になっているのが、自分でも分かった。靴を脱ぎ散らかして、風呂とトイレへと続く扉とキッチンが両端にある短い廊下を駆け抜ける。そして、唯一の部屋へと続く扉を開けて、壁際のスイッチを押して明かりをつける。仕事道具が入った鞄はソファの脇に放り投げて、フィギュアが入った箱だけは丁寧にテーブルの上に載せた。それから、手を洗いに行く。これも既に習慣なのだが、不思議と念入りに手を洗ってしまう。それから、嬉々としてソファに座った。箱を袋から取り出す手は、心なしか震えていた。たかだか人形一つで大げさであるとは思うが、それでも興奮しているのだから仕方がない。
そうして、まるで神聖な儀式かと思えるほどに、慎重な動作で箱の蓋を開き――私は固まった。
とりあえずは、目の前の事象全てを否定したい。テレビをつけていないせいか、不気味なほどに部屋は静まり返っている。暫くの間身動きを取れずに、それをまじまじと見つめていた。とうとう目か、あるいは頭が可笑しくなったのかとも思ったが、それはやはり認めたくない。かといって、これの存在を認めることも出来ず、結果取った行動は逃げだった。素早く、それでいて静かに蓋を閉じようとする。しかし、その前にそれは動いた。


「……ん」


箱の中で窮屈そうに身を縮こまらせて寝ているそれ――真田幸村風の小動物は、小さく声を漏らして僅かに身を捩じらせた。その行動によって、それが生き物であることを確信させられた。ただ底のほうで寝ているだけならば、まだそういう格好をしたフィギュアなのだと思い込むことも出来る。しかし、こうやって目の前で動かれたのでは、生きていると納得せざるを得ない。
これは厄介ごとになる。直感的にそう思った。己の安全を確保するのならば、起きる前に蓋を閉じて何処かに捨てて後は知らぬ振りをしておけばいい。しかし、その案に反対している自分もいた。その自分は、こんな可愛い生き物を捨ててしまうのか、というようなことを主張している。そして、その言葉に屈してしまいそうな自分が虚しい。暫くの葛藤の後、結局はこの生き物を捨てるのは保留しようという結果が出た。
では、何をしようかと新たな悩み事が出てくる。一番してみたいのは、この生き物を起こすことである。しかし、こうもすやすやと眠られては、そうすることに罪悪感を感じてしまう。頭を悩ませていると、またそれは身を捩る。心なしか眉間に皺が寄っており、やはり寝づらいのだろうと思った。そこで、あることを思い立って、足音を立てないように気をつけながら脱衣所へと向かう。そこで未使用のタオルを探し出して、それをテーブルに折りたたんで敷く。箱の中で眠るよりも、やはりこちらで寝たほうが寝心地がいいだろう。そう思って、起こさないように気をつけながら、そっと箱からそれを取り出した――のだが、それは瞼をゆっくりと持ち上げた。だから、私と目が合ってしまう。私は情けないことに視線を逸らすことも、タオルに寝せることも出来ずに、頬を引きつらせながらそれを見ているしか出来なかった。小さな手で目を擦っているところからすると、まだ半分夢見心地なのだろうか。出来れば、また目を閉じて寝てほしいと考えつつ、ようやくそれをタオルの上に載せた。未だボーっとした顔つきで、それは辺りを見回す。固唾を呑んで、というよりも身動きが取れない私は、その様子をまじまじと見つめることしか出来なかった。それは暫くの間周りを観察していたかと思うと、今更私の存在に気がついたのか、こちらを見て、飛び上がらんばかりに驚いた。というか、実際に飛び上がっていた。その動作に驚いて何も言えないでいる私の前で、それは地面に頭を擦り付けて土下座をした。それに、更に驚いて、益々何も言えなくなってしまう。


「申し訳ござりませぬ! あるじ殿!」

「はい?」


まさかの謝罪であった。謝られる謂れもなければ、主となった記憶もない。しかし、それはただひたすらに頭を下げた。なんだか、非常に申し訳ない気持ちになってきた。


「あの、顔を上げてください」


思わず敬語でそう声をかけていた。それは恐る恐るといった風に顔を上げ、私の様子を伺っているようだった。だから、安心させようと微笑みかけると、それもおずおずとだが微笑み返してくれた。何というか、可愛い。愛らしい。マイナスイオンを大放出しているとしか思えないそれを、今すぐにでも抱きしめたい衝動に駆られたが、あくまでも私たちは初対面である。それに、体格差から押しつぶしてしまいそうで怖い。だから、その衝動を押さえつけて、代わりに先程から気になっていることを尋ねてみることにした。


「えっと、君は誰なの?」

「私はさなだゆきむらと申します! あるじ殿に誠心誠意御仕えすべく馳せ参じたのです!」


元気一杯。その言葉がぴったりと当てはまるような答えを、ゆきむらは返してきた。しかし、私にはさっぱり意味が分からない。確かに、ゆきむらの名前は分かったが、仕えられる理由が分からなかった。そもそも、こんな小さな子に仕えられるというのは可笑しいような気もする。やはり面倒ごとであったと頭を抱えたくなった私とは対照的に、ゆきむらはきらきらと純粋無垢な瞳でこちらを見てくる。それを見ていると、まぁいいかと思えてしまった。何はともあれ、このように可愛らしい生き物と暮らせるのだから、それは嬉しいことである。ある種、ペットのような存在と認識することにした。何か問題が起きたら、その時に慌てればいい。楽観的だと思いはするが、どうせゆきむらを追い出すことなんて出来ないのだ。だったら、悩むのは時間の無駄遣いである。


「じゃあ……ゆきむら、これからよろしくね」

「はい!」


にっこりと笑うゆきむらは可愛い。戦国無双の幸村がかっこいいのならば、こっちのゆきむらは可愛い。絶対に甘くなるなと、将来の自分を想像して呆れ笑いを浮かべながら、ゆきむらの頭を指先で撫でた。




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