6「安らぐ眠り」吉羅×日野@金色のコルダシリーズ

「支払いは済ませておく。後は鍵をフロントに返しておいてくれ」
「解ったわ」

 まだベッドに眠る女に背を向けながら、吉羅は隙のない身仕度を整えた。

 腕時計の時間を見れば午前2時。

 家に帰れば数時間は眠れる筈だ。

 後腐れなく女と躰を重ねても、一緒に眠ることはしない。

 ひとりでないと眠れないのだ。

 吉羅は女に特に挨拶も、甘い言葉も掛けることなく、部屋を後にした。

 愛など必要ない。

 刹那の快楽があれば良い。

 愛を求める女などは必要ない。

 ただ欲望を満たされればそれで良い。

 吉羅は愛車であるフェラーリに乗り込むと、自宅へと向かった。



 吉羅は気怠く起き出すと直ぐに身仕度をし、車で星奏学院へと向かう。

 休日出勤するのは嫌いじゃない。女に逢うといった無駄なことをしているよりも、余程効率的だ。

 車を学院近くまで走らせると、見慣れた姿が視界に入る。

 ヴァイオリンケースを片手に、とても楽しそうに歩いている少女。日野香穂子だ。

 冬の煌めきのように清らかに澄んだ姿と、ヴァイオリンに傾ける情熱的な姿が同居する姿は、懐かしいあのひとに似ている。

 その姿を思い出す度に、胸が張り裂けてしまいそうな痛みを伴うが、それでも忘れることは出来ない。

 あのひとに本当に似ている。

 清らかで熱情が籠った瞳も。

 あのひとがカサブランカならば、日野香穂子は向日葵だと思う。明るく笑うところは向日葵そのものだからだ。

 恋も知らずに愛も知らずに逝ってしまった清らかなひと。

 恋も愛も知らないのは、姉弟揃ってのことなのかもしれない。

 吉羅は香穂子の姿を横目に見ながら、車を学院の駐車場に入れた。



 夕刻には少し早い時間に仕事を切り上げ学院を出ると、通りで日野香穂子の姿を見掛けた。

 ヴァイオリンを弾きながら、本当に嬉しそうな顔をしている。きっと魂の奥底からヴァイオリンを愛しているのだろう。

 かつての吉羅もそんな風に思っていたことがあった。

 だが、総てを奪い去ったヴァイオリンに、今は憎しみしか抱けない。いや、正確にはそうなりたいと思い込んでい るかもしれなかった。

 自分にはないものを持っている日野香穂子。

 汚れてしまっている自分とは正反対の、清らかな存在だ。

 その存在は、吉羅の透明な部分に語りかけてくれる。

 その姿を見るだけで、胸の奥が切なく痛む。

 その笑顔を見るだけで、手に入れたくなる。

 胸が圧迫されてしまうほどに痛むのに、何故か幸せだった。

 香穂子のそばにいたい。

 あの温かで透明な音を聴きたい。

 今、その笑顔をそばに置きたい。

 吉羅は強く望むこころのままに、ゆっくりと車を止めた。香穂子の音を近くで聴くために。

 理事長就任式のアンサンブルのために弾く曲を熱心に練習していた。

 このメロディによって旅立ちを祝って貰える自分は、とても幸せに違いない。

 香穂子が練習を終えると、吉羅は大きく拍手をした。
「ブラボー」

 驚いたように香穂子が見つめるのすらも楽しみながら、吉羅は語りかける。
「日野君、私が演奏に拍手をするのが、そんなにも意外なことかね」
「いいえ。嬉しい驚きだなあって」

 香穂子はふんわりと吉羅に笑いかけながら頷く。

 なんて愛らしいのかと、思わず微笑みに見入ってしまった。

 今すぐこの笑顔を独り占めにしたい。

 たとえひとときでも良いから、その笑顔を自分のものにしたかった。
「休みの日にも練習か?」
「はい。一生懸命頑張らないと、なかなかみんなには追いつけないですから。それにヴァイオリンを弾いている時はとても楽しいんですよ。…私、ヴァイオリンを弾いている時が一番好きなんです」

 幸せそうに笑う香穂子に、吉羅の胸は棘が刺さったような痛みを感じた。

 恋と記憶の茨の棘が。

 だがその痛みはどこか華やかで、吉羅を酔わせてくれる。

 もう少し一緒にいたい。

 もう少しこの甘い痛みに陶酔していたい。

 吉羅はフッと微笑むと、らしくない一言を口にした。
「…君、魚は好きか?」
「え?
あ、好きですけど…」

 いきなり何を訊くのかと言いたげな目を香穂子はしている。
「…少し付き合いたまえ。良い寿司屋があるんだ。予約を入れて置いたんだが、あいにく連れが行けなくなってしまってね」

 嘘だった。

 最初から連れなどはいない。

 だがそう言わなければ、香穂子が恐縮するのは解っていたから。
「解りました。お供します」

 香穂子は明るく元気に微笑むと、吉羅が促すままに助手席へと乗り込んできた。

 このシートが特別なものだということを、香穂子は気付いているのだろうか。

 女性は愛するひとしか乗せない大切な場所であることを。

 香穂子は丁寧にドアを閉めると、シートベルトをする。ヴァイオリンは相変わらず大切に抱えていた。

 その姿を見ると、懐かしくも愛しい姉を思い出した。

 面影が重なる。

 だが姉と違うところは、生命力に輝いているところだ。

 落ち着きのないところがたまに傷だが、そこがまた可愛いと思えた。

 そばに置くだけで、安らぎとどこか華やいだ気分になる。

 胸の奥が締め付けられるのに、幸せで幸せで仕方がなかった。

 特に何も話をするわけではないのに、ただ一緒にいるだけで楽しい。

 香穂子は湾岸線を走るドライブが気に入っているらしく、車窓をにこやかに見ていた。それと同時に、吉羅が運転する姿を交互に見つめてくる。
「どうした?」
「理事長が車を運転するのを見るのは楽しいと思って」

 香穂子は照れ隠しのような笑みを浮かべると、吉羅を純粋なまなざしで眺めた。
「…そんなに楽しいかね?
君は面白い子だね」

 吉羅が笑みをにじませながら、新鮮な喜びを感じる。

 ドライブは何よりも好きだ。

 高速を颯爽と車を飛ばすのが、ストレス解消になっている。

 それを香穂子が喜んでくれていることが、純粋に嬉しかった。

 香穂子が隣にいれば、もっと癒されるだろう。

 今、こうして隣にいてくれるだけで、心地が良かった。

 運転に集中しながらも、香穂子の様子を感じ取られるのが、幸せだ。

 車を馴染みの寿司屋の駐車場に停めて、ふたりで並んでカウンターに座る。

 ティーンエイジャーらしいチェックのハーフパンツに、レースのついた白いブラウスにジャケット。

 瑞々しい若さが溢れているスタイルだ。

 それに対比するように、吉羅はカッチリとした仕立ての良いスーツだ。

 少しアンバランスなふたりに、誰もが視線を投げて来るのが、香穂子は落ち着かないようだった。
「日野君、遠慮せずに何でも頼みなさい」
「はい、有り難うございます。理事長」
「…ここでは理事長は止めないか?
日野君」

 理事長なんて肩書きでは呼ばれたくはなかった。

 プライベートなのだから、香穂子にはもっとリラックスして欲しかったから。
「解りました、吉羅さん」

 香穂子はニッコリと頷くと、少しばかり緊張を解いて寿司を注文し始めた。


「ご馳走さまでした。本当に美味しかったです。何かお礼が出来たら良いんですけれど…」

 香穂子は恐縮するように言うと、何度も頭を下げる。

 何かして貰えるならば、そうヴァイオリンを奏でて欲しい。

 甘く温かいあの透明な香穂子の音色を。
「では、月曜の放課後にヴァイオリンを弾きに来ては貰えないだろうか…」

 吉羅の申し出に、香穂子は大きく頷いた。
「解りました。月曜日に理事長室に行きます!」
「ああ。頼んだ」

 吉羅は満たされた笑みに微笑むと、車に乗り込んだ。

 静かに車を走らせる。

 バックミラーには香穂子の姿が映っている。

 見えなくなるまで見送ってくれるつもりなのだろう。

 ふんわりとした温かさがこころに滲み、吉羅は心地好くもどこか名残惜しい気分で、車を走らせた。



 翌日、放課後になるなり、香穂子は理事長室に現われた。
「理事長!
ヴァイオリンを弾きに来ました!」

 いつものように生命力を輝かせながら、香穂子は吉羅に微笑みかける。

 余りに眩しくて、吉羅は目をすがめながら、ソファへと移動した。

 目を閉じると、香穂子に命じる。
「日野君、ヴァイオリンを頼む」
「はい」

 香穂子は頷くと、背筋を伸ばしてヴァイオリンを奏で始めた。

 こころの一番純粋な場所に語りかけるように、香穂子はヴァイオリンを奏でる。

 温かくて優しくて、吉羅の疲れを総て取り、癒してくれる音だ。

 吉羅は香穂子の音をじっくりと聴き、まるで子守歌を聴いている時のように落ち着いた気分になる。

 吉羅は緩やかに目を開けると、香穂子を見上げる。
「有り難う、日野君」

 香穂子は素直に微笑み、頭を下げた。

 このまま緩やかに眠りを貪りたい。

 吉羅がうとうとすると、香穂子がその横に腰を掛けた。
「お疲れのようですね。少し眠られたら如何ですか?」
「しかし…」
「三十分ほどしたら起こしますよ」
「…ああ…」

 まどろみが瞼を満たして行く。

 心地好い眠りを手にしながら、吉羅はしばし貪ることにした。

 吉羅が誰かの横で眠れたのは初めてだった。




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