二年目へ
殿下の妃になって一年余り。
昨日三日間の視察を終えて帰ってきたばかりの殿下は朝から浮かれに浮かれまくっていた。
「今日は夕方までに公務を片づけてくるからな」
「急いだりしないで下さいませ。焦って手間が増えては大変です」
「大丈夫だ。最近は大きな失敗はしていないからな!大体、アティとディルがいるというのに無茶ばかりしていられない。余計な心配はしなくていいのだぞ。では行ってくる!」
鉄仮面を顔に貼り付けたオブシェルを伴って出て行った殿下の姿を見送ると、コーテアと顔を見合わせた。
「これは面倒事が起きそうな予感ですわねえ」
「コーテアもそう思う?」
殿下が下手に張り切るとあまりいいことがない。今回も見事にそれに当たる状況に二人でげんなりしながら、乳母から赤ん坊を受け取った。
温かい赤ん坊はいつ抱いても心が和む。
まさか結婚一周年を迎える時に子どもが生まれているとは思わなかったけれど、結婚してすぐに授かったのは幸い……なのかしら?それも男の子で、皇帝陛下を始めとする人々が手を挙げて喜んだのは先月のこと。
考えてみれば自分こそ二人姉妹だったものの、両親とも多産の家系だった。結婚前は子どもができなくて悩むことも懸念事項に入っていたものの、なんというか。
夫であり息子の父親である殿下の喜びようと言ったら今思い返しても凄かった。子どもが生まれた喜びの勢いで「無事生まれたぞ!男の子だ!」と叫びながら城内を三周走り回ったのは恐らく後世まで言い伝えられることだろう。初産で尋常じゃなく疲れていたのにすごく恥ずかしかった。更にはお祝いにきてくれた人々がその逸話を必ず話していくのでその度に顔が赤くなった。
結婚式では奇跡的に失敗のなかった殿下だけれどそこで生まれ変わったわけでもなく、相変わらず常識を越えた出来事が起こっている。慣れた?いいえ、慣れるわけないじゃない。妃になるまで8年慣れなかったのよ。まだまだ慣れないと思うわ。と言うか、私が慣れてしまったら終わりだと思うのよ。オブシェルにも時々言われる。どうか殿下に感化されないようにって。
「さあ、サイディル。あなたもお父様が無事に一日を終えられるよう祈ってね」
腕の中の赤ん坊に話しかけるけれど、まだ父の実態を知るよしもない息子は眠そうに瞼を閉じてしまった。
このままサイディルと過ごしていたいけれど、私にも公務がある。乳母に世話を頼んで、コーテアと身仕度に向かった。
* * *
立て続けに入っていた面会が一段落したところでオブシェルがやってきた。まだ午後の3時。私は勿論、殿下だってまだまだ公務の最中だというのに渋い顔の侍従に何かあったのねと確信する。
それでもコーテアは愛想のいい顔をオブシェルに向けた。
「オブシェル殿、こちらにいらした用事を今すぐ忘れてしまうことはできないでしょうか?」
「それは無理だ」
ばっさりと切り捨てたオブシェルに、コーテアは何故か既に疲れた様子で「ですって、姫様」と振り返った。
「この後、慈善事業についての打ち合わせがあるの。私が主催になっているから無闇に遅れるわけにはいかないわ。一体どんな話かしら?」
彼もわかりきっているだろうけれどこちらも忙しいことを敢えて伝える。オブシェルがとても申し訳なさそうな顔をするのはかわいそうだと思う。きっと彼は悪くないのだろうから。
「それが……殿下が仕事をしたくないと会議室に立てこもってしまわれたのです」
「立てこもる?」
「殿下の決裁を仰がねばならない案件が今日はやけに多く、それが次から次へと運ばれてくるのに嫌気が差し、脱走して一人で会議室に逃げ込んだのです。中から鍵を閉めただけでなく、机なども動かして侵入を防いでいるようで……扉を破るのは流石にいかがなものかと手をこまねいております」
大人の男性が簡単に中に入られないように工夫するだけの頭はあったのねと変に感心してしまう。しかし、幾つか心あたりがある殿下の決裁が必要な類の案件を考えてみると、殿下がいつまでも駄々をこねていては困る。
「殿下は何かおっしゃっているの?」
「皆で結託して妃殿下の元へ早く帰らせないようにしているのか、今日はもう働きたくない、時間が来たら妃殿下と皇子殿下のところに帰ると……」
オブシェルの言葉にはしてあるが、殿下がどんなふうに言ったのかは容易に想像がつく。
また子どものように拗ねてるのね。
確かに殿下はまだ18歳。元々が幼いだけにまだまだ子どもの部分が多いのかもしれない。それでもこの件は駄目だ。
ここで甘い顔をすることなんてできない。
時計を見れば、打ち合わせまであと20分。こちらから殿下のところに行くには時間が足りない。
「オブシェル。大至急で手紙を届けて欲しいのだけれど」
打てる手はこれくらいかしら。
素早く手紙を書き上げると簡単に封をしてオブシェルに渡した。
「できるだけ早く届けてちょうだい」
「かしこまりました」
受け取ったオブシェルはサッと部屋を後にした。早歩きの中でも最上級の早歩きに、コーテアがのほほんと笑顔を浮かべる。
「今日もオブシェル殿は大変ですわー」
「本当にね」
心から同情するわ。
彼がストレスで早死にしないといいのだけれど。
なんでも、あの若さで胃薬は常に持ち歩いているという話だし。
「さて、姫様のお手紙の効果が楽しみですわね」
コーテアが期待の籠もった眼差しを向ける。
「多分大丈夫だと思うわ。きっとオブシェルが一回手紙を持ってくるだけで済むんじゃないかしら。打ち合わせが始まってしまっているかもしれないけれど、それくらいは許してもらいたいわ」
「殿下がいらして駄々をこねるのに比べたら全く問題ありません。さて姫様、そろそろ向かいませんと」
「そうね」
打ち合わせの部屋に移動するには丁度いい時間だ。
鏡に写った自分を見てどこにも乱れがないことを確認する。
よし、完璧ね。
ついでに笑顔を一つ作り、祈りをこめた。
殿下、お仕事頑張って下さいませ。
* * *
夕方には戻るという朝の宣言は流石に厳しく、それでも日が暮れて少しした頃に殿下はやってきた。
顔には拭いきれない疲れがあったけれど、私とサイディルを見るとパッと明るい表情になり、手を広げて駆け寄ってきた。
「ただいま。アティ、ディル」
「お帰りなさいませ、殿下」
サイディルごと腕に閉じ込められ、頬へのキスと共に労をねぎらう。
取り敢えず殿下にしてみればとても頑張った日なのだし、甘い顔をしておこう。昼間は無理だったけれど今なら構わない。
「今日はちょっとしたご馳走を用意させましたの。あちらでいただきましょう」
「うむ。そうだな」
食事の間に移動して特別な料理を二人で味わいながら、殿下は今日の出来事を話していく。
「今日はオブシェルが迷惑をかけて済まなかったな」
「驚きましたわ。突然やってくるんですもの。しかも殿下が公務を放棄するだなんて」
「とんだ勘違いだ。早まった勘違いでアティのところに行くなんて私も驚いたぞ」
「何はともあれ勘違いでよかったですわ。本当の話でしたら、私、今頃こんなふうに笑って殿下とお食事なんてできませんもの」
「いや、それは……うん、そうだな。その通りだ。私はそこまで無責任ではない。はははははは」
殿下の乾いた笑いに気づかない振りをしながら一緒に声をたてて笑う。傍ではサイディルを抱えた乳母がポーカーフェイスを保つのに必死なのが伝わってくる。給仕の侍女達も同様だ。壁に控えているコーテアはオブシェルを哀れむような目をしていた。
種明かしをすると、私が殿下に送った手紙はこうだった。
『最愛の殿下へ
今、オブシェルがやってきました。
殿下がたくさんの仕事に嫌気が差し、もう今日は働きたくないとおっしゃったと言うのです。
私、信じられなくてお手紙を書いています。
殿下はどんな大変な時でも頑張って取り組む方です。
例え約束の夕方を過ぎてしまっても、今日の分のお仕事はしっかり終わらせてできるだけ早く私達のところに帰っていらっしゃるのが私の愛する殿下ですのに。
夫婦になって一年。殿下が責任を持って事を成し遂げる方だと私はよく知っています。
どうか一言、オブシェルの勘違いだとお返事を下さい。
あなたのアティエット』
これだけで何とかなると思った。
結果は成功。打ち合わせが始まってすぐに殿下の手紙がやってきた。
『愛するアティ
オブシェルの姿が見えないと思ったらそんなことになっていたとは。
安心してくれ。私は急に増えた仕事を必死に頑張っている。
何故オブシェルがそのような勘違いをしたのかわからないが、私は真面目に仕事をしているぞ。
アティが不安になるようなことは一切無い。
晩餐には遅れるかもしれないが、精一杯早く帰るようにする。
夜が楽しみだ。
ユルトディン』
筆跡に焦りが見えていたのはオブシェルの勘違いではなかったことを雄弁に物語っていた。
でも今回はそれでは都合が悪い。
手っ取り早くかたをつける為にオブシェルには悪者になってもらった。きっと帰った後、殿下にぐちぐち言われただろう。つくづくかわいそうな人だ。
「殿下、オブシェルは働き過ぎで疲れているのですわ。近い内にお休みをあげてはいかがでしょう?」
「休みか。うん、どうしようかな」
アティに告げ口したあいつをどうしてくれよう、と聞こえたのは殿下が今日の一件でオブシェルに逆恨みしているからだろう。
「だってまた今日のようなことがあったら大変でしょう?オブシェルがミスをして殿下に被害があったら大変です。私、心配ですわ」
「う、うん、そうだな。考えておこう」
「まあ、お優しい殿下が大好きですわ」
「そうか。そうだろう」
大好きの一言で機嫌を良くした殿下は満足そうに頷いている。
畳みかけるなら今ね、と満面の笑みを浮かべた。
「私、苦手なことでも一生懸命になる殿下を尊敬しています。この一年でとても成長されて……こんな立派な方が私の夫だなんて本当に誇らしいのです。私も殿下にふさわしい妃になれるようもっと頑張ります」
暗に仕事をさぼる殿下は嫌いだと含めながら、それでも殿下が頑張れるように言葉を選ぶと、殿下は席を立って私を抱き締めた。
「アティがいてくれるから頑張れるのだ。アティの誇れる夫、ディルの誇れる父となるようこれからも努力する」
感極まったと言わんばかりに喜びに震える声に、打算が頭の隅に追いやられていく。
「二年目も幸せに暮らそう」
「はい」
殿下の背に回した腕に力をこめる。
食事中だからそれ以上は控えたけれど、殿下はもう上機嫌でその後の会話はよく弾んだ。
そんな私達を見て、翌日、コーテアがオブシェルと「姫様ほど殿下の扱いに長けた方はいませんわ」と盛り上がるなんて知らずに。