『逃げろ!』
『優しい嘘』真吾編


 俺は常に逃げていた。
 逃げ続けるしかなかった。
 そうでなければすべてを破壊しただろうから。
 逃げて逃げて逃げて、そして――何年経とうが、逃げても何の解決にもならない事を知った。
 思い知らされた。
 そして俺は戻ったのだ。
 俺が安らげる唯一の場所に。
 その場所は安らぎと共に俺に痛みを与える。
 俺は地獄の業火に焼かれながらその安らぎを得るのだ。



 全身の血が逆流するとうのはこういうことか。
 冷めた頭の片隅でもう一人の自分が冷静に分析する。
 表皮は総毛立ち、目の前は血塗られたように真っ赤なのに。
 俺の耳は心を掻き乱す甘やかな熱い喘ぎを拾う。耳だけではなく全身で、細胞の一つ一つで俺はそれを聞き、感じた。
 何故ならそれは世界で唯一俺の愛する人間の発したものだったから。
 聞き間違えようも無い。
 それは俺の唯一無二の血の繋がった兄の嬌声だったのだ。
 信じられないものを目にして思わず後ずさる身体が扉にあたって音を立てると、涙と欲情に潤んだ兄の瞳が俺を捉え、瞬く。その茫洋とした眼差しが俺を知覚すると瞳孔が急激に収縮し、瞬きにボロボロと涙がこぼれた。その涙は透明で酷く美しかった。
 そんな姿に状況も忘れて俺は見惚れてしまった。
 そう、兄を組み敷きその楔を打ち込んで律動しているのは十九年前の俺だ。
 いや、違う。
 俺にそっくりな俺の――息子だ。
 そう、息子だった。



 俺と兄の省吾は11歳年が違う。
 俺達の両親は個人病院とはいえかなり大きな規模の病院の医院長と副医院長で、彼らは常に家には居ず、俺の面倒は兄である省吾と周期的に変わる家政婦が見てくれていた。
 俺の記憶はだいたい3歳前後から始まる。その時兄は既に14歳、中学生だった。保育園への送り迎えも学校の行き帰りの兄の仕事で食事以外の殆どの面倒を見てもらっていた。
 小さな頃の俺の夢は将来自分の兄と結婚して温かな家庭を作ることだった。
 俺の起きている時間に両親が家に居たためしがない、俺の寂しさがそう言わせたのだろうと省吾は思っていたようだがそうではない。
 誰かを好きになるという行為は俺にとって幼い頃の省吾への気持ちから始まり、そしてそれは未だに継続してた。
 世界に省吾しか要らなかったのだ。
 俺は小学校へ上がり自分の気持ちを周囲に告げることをやめた。それは俺の気持ちが周囲の人間にある種の困惑を覚えさせると判ったからだ。
 それから俺は自分の気持ちを押し殺して生き続けていた。
 俺が中学へ進学する頃には省吾は研修医として忙しく働いていて殆ど家で会う事もなくなっていた。
 俺はたった一人、広すぎる家で中学の3年間を過ごし高校へ進学した。
 そしてあの日。
 いつものように留守中の省吾の部屋で省吾のベッドで俺は想像の中で省吾をあられもない姿にしながら日課となってしまった手淫を行っていた。
 突然帰って来て部屋に入って来た省吾に爆発寸前だった俺の熱が瞬時に凍りつく。
 なのに省吾は穏やかな顔で、まるで父親のように笑いながら軽い調子で謝って部屋を出て行った。
 そう、省吾のさまはまるで悪戯している最中の子供を見るようなそれだった。
 俺が16歳、省吾が27歳の時だった。
 怒りと絶望と羞恥と欲望に耐え切れなくなって俺は家を飛び出した。もしそのまま一緒に暮らしていたらいつか俺は実の兄を強姦して執着のあまり殺してしまうだろうと確信して。
 ――逃げろっ!
 心の叫びのままに俺は家を飛び出した。
 その後の生活は酷いものでとても人には教えたくない。
 年齢のわりには体格は良かったから年をごまかし夜の世界に身を潜めた。
 そして3年が過ぎた頃、ヒモ同然で暮らしていた俺は女に捨てられ、次のあてを捜している時、以前一緒に暮らしていた女が赤ん坊を連れて俺の前に現れた。
 「欲しくて生んだけど、思ったより大変だからいらない。あんたの子だからあんたが育てて」
 呆然としている俺に女は赤ん坊を押し付けて走り去った。
 本当に俺の子供かも怪しいその赤ん坊を、それでもどうしてか見捨てる事ができずに俺はとうとう、家に戻った。
 そう、自分の身さえもままならない俺に赤ん坊が育てられるわけもなかったからだ。
 赤ん坊を連れて戻った俺に両親はヒステリックに対応したが省吾だけは以前とまったく変わらずに迎えてくれた。
 それどころかかなりやせ細った俺の身を案じて、その温かな手で俺の頬にそっと触れてきたのだ。指先から流れてくる温かな優しさ。俺はずっとそれに飢えていたことを思い知らされた。
 どうしてこの兄から逃げ出し、兄なしで生きてこられたのだろう。不思議で仕方がなかった。
 医者として両親の病院へ勤め始めていた兄は時間的に余裕があるのか俺の息子だという赤ん坊をよく面倒見てくれた。それは俺が何もできなかったと言うのも有るだろうけれど。
 何年経ってもたくさんの女と関係を持っても俺の気持ちは3年前に逃げ出したその時から少しも変わっていなかった。
 不用意に省吾に触れたら暴走してしまうだろう自分にぎりぎりのところで俺は持ちこたえ続けた。
 だが、俺の我慢はあっけなく決壊し俺は再び飛び出した。
 あまりにも無防備な省吾にとうとう耐え切れなくなったのだ。
 ――逃げろ、逃げろっ!
 警鐘が鳴り響く。
 セックスをすると言うことは子供が出来る可能性があるということだ。いくら避妊してても可能性はないとは言えない。それに安全性も相手に大きく左右される。
 だから俺はどこか省吾に似た男を相手に省吾を想像し抱き続けた。俺に惚れこんでくれる相手には悪いと思っていたがとても省吾以外の男に勃起する事などありえなかった。
 だったら省吾を思いながら自慰すればいいと思うだろう。
 だが、俺の心は人肌の温かさを、脈動を求めていた。
 たぶんそうだ、認めたくはなかったが俺はずっと寂しかったのかもしれない。
 一度酷くなじられて別れてからは特定の相手を作らずにどこかしら省吾に通じる部分を持った男達と行きずりに身体を重ねた。
 そしてそれから十六年の歳月が流れ、彷徨う事に疲れ果てた俺はやはり安住の地へ戻って来た。
 そして目にしたのだ。
 その若かりし頃の自分を髣髴させる姿に今更ながらに本当に自分の子供だったのかと驚く。
 そしてとても潔癖で端正な省吾を良く知るだけに俺は絶望した。
 その兄が成り行きだけで身を任せる事などありえないと。
 俺の最愛の兄に、自分の気持ちは到底受け入れてもらえないだろうと思っていた兄に、――俺の、息子が!!
 俺は最高にして最大のライバルをこの世に送り出してしまったのだろうか。
 眩暈がするような嫉妬で目の前が真紅に染まった。
 ――逃げろ、逃げろっ!
 ひどく切迫した声が俺の頭に響き渡る。
 どうして逃げなければならないのか。
 俺の脳はもうとうに狂ってしまっているのか。
 息子の目に浮かぶ欲情はかつての俺の劣情と同じだと頭の隅のひどく冷静な部分が分析する。
 「これはいったいどういうことなんだ?」
 気づいたはずなのに俺の存在を無視して、省吾に欲望を穿ち続ける息子を止めるために俺はゆっくりと言葉を紡いだ。


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