炎
どうして、死に急ぐ人間がいるのか、不思議で仕方なかった。
どうして、人を殺める人間がいるのか、不思議で仕方なかった。
あたしは恵まれているのだと、後に分かるようになった。
神の娘だから。
そんな理由ではなく、あたしはたまたま、苦しみというものに鈍感なだけなのだ。
たまたま、何も失ったことがなかっただけだったのだ。
だから、あんなにも馬鹿正直に正義だけを信じていられた。
この世は生きとし生けるものが皆、助け合い、愛し合って生きているのだと信じていられた。
貴方は忘れているかもしれないけれど、あたしたちは一度出会っているんだよ。
育ての親を殺されて、敵を皆殺しにしてのけた貴方のあのときの表情が、
あたしは今でもこの目に焼きついてはなれない。
貴方の周りに横たわる骸。紅く染まり果てた室内。
そして、あたしはあの時一つの罪を犯した。
助けを求めてきた人間を一人、見殺しにした。
怖かった。
信じられなかった。
何が?
命令されたからという理由だけで、人を二人殺したその賊たちが。
親の敵を討つために我を忘れた貴方の姿のほうが、あたしにはまだ理解できた。
それでも、あたしは貴方が怖かった。
貴方がこの世界を暗黒に染めてしまいそうで、
あたしの心臓は氷付けにされたように縮み上がっていた。
貴方に助けられたとき、すぐには思い出せなかった。
だけど、しばらく一緒にいて、思い出したよ。
貴方はすっかり丸くなってしまっていて、別人のように爽やかに笑っていたけど、
両親のお墓の前に立つときだけは、その青い目の中に冥いものが蘇っていた。
食事にも無頓着で、まるで生きることを早くやめたいように見えた。
あたしがいなくなったら、肩の荷が下りたとでも言うように命を手放してしまうんじゃないかっていうくらい、
貴方は隠居暮らしをしているように見せかけて、生き急いでいるように見えた。
貴方を生かしたいと思ったのは、単なるあたしのエゴだったんだと思う。
貴方の事情など構わずに、あたしはただ、目の前で人が死に魅入られているのが嫌だったんだ。
そんなあたしを、貴方はいつの間にか優しい瞳で見つめている。
あたしは貴方の気持ちなどこれっぽちも考えずに、生きることを押しつけたというのに。
いっそ、恨んでくれたほうがよかった。
憎んでくれた方が、償いやすかったに違いない。
貴方の崇拝にも似た愛を受け止められるほど、あたしの器は大きくないの。
女神じゃないのよ。
貴方のキスを受けるたび、あたしは自分の小ささを思い知る。
自分の愛の足りなさを思い知る。
あたしは、どんなに貴方を愛しても貴方があたしを思うほどには貴方を愛すことは出来ないの。
あたしは神の娘。
でも、貴方と一緒にいるためなら人になることも厭わなかった。
永遠の命なんて、貴方がいない世界ではただ苦痛な時間が続くだけ。
貴方が消えてしまってから、あたしは自分というものが分からなくなった。
あれほど愛してくれたのに、貴方はあたしの前から姿を消したのだから。
信じてたものに裏切られて、あたしは初めて、貴方を心底愛してたことに気づいたの。
貴方の抱える負の側面に惹かれていただけだったことも。
また逢いたいと思ったことも、探してほしいと思ったことも、嘘じゃない。
だけど、どこかで貴方にも味合わせたいと思っていたのかもしれない。
おいて行かれる悲しみを。苦しみを。悲しみを。
永遠というものの、耐え難い重みを。
あたしたちの出会いははじめから間違っていたのよ。
あたしたちは、こうなるべきではなかった。
だからやり直したいと思ったの。
もう一度、今の貴方にまっさらな状態で出逢って恋に落ちるのか、
あたしは自分を試してみたかったの。
ごめんなさい。
あたしが貴方にしたことは、けして許されることではありません。
でも、生きていてほしかったのは本当です。
死に急いでほしくないと、またあの厄介な正義感が首をもたげたのです。
同時に、貴方にまた逢いたいと思ったことも、真実です。
葵
無茶な約束を残して死んだことを、あなたは恨んでいるかもしれない。
それでも生きていてほしかった。
この世の理は廻ること。
あたしが還りつくまで、そこにいてほしかった。
どれだけあたしはあなたにわがままを言ったことか。
分かってはいるんだ。無茶なことも相当言った。
嫌だ、って、言ってほしかったのかもしれない。
困ったように笑って、いつも言うことを聞いてしまうあなたが、すごくあたしは頼りなくて、
そんな愛され方はしたくないって、ずっと思ってた。
好きで好きで仕方なくて、どうしようもないくらい想いが膨らむのは、
決まってあなたといないとき。
一人のとき、あなたはあたしの中で最強の人になる。
何でも叶えてくれて、時々叱ってくれて、甘えさせてくれて。
あたしは、女神なんかになりたくなかったの。
あたしはそんなに完璧じゃない。
あなたと初めて出会ったとき、我を忘れて死に急ぐあなたを見たとき、
あたしは自分の正義感を満たしたくてあなたを諌めただけなのよ。
殺したいと思うほど、誰かに深い傷を負わされたことがあたしはなかったから、
あたしは綺麗なことだけ言えた。
傷つききってるあなたに理解を示すでもなく、ただ正論だけをぶつけることが出来た。
愚かな人間なの。
自分のことしか見えていなかったの。
あたしは、何度生まれ変わってもあなたの女神にはなれない。
あなたの望むような女にはなれない。
知っているでしょ?
あたしは強くないの。
それは、正義感を持って真っ直ぐ生きてるからじゃない。
信念が曖昧だから折れやすいだけなの。
好きだなって思うよ。
もう、どうして好きなのかも分からないくらい。
でも、最近はあなたがあたしを求めてくれるから好きなんじゃないかって、思ってしまう。
あたしは、あなたのことがなぜ好きなのかわからない。
あたしは、あなたがなぜあたしのことを好きなのかわからない。
あたしは、またあの時と同じ問いを繰り返しはじめてる。
あたしはあなたを傷つけるだけ。
あなたもあたしを傷つけるだけ。
気づいているでしょ?
あたしたちは一度、全てを真っ白にしてしまったほうがいいって。