<拍手御礼SSその5>

「蝉が」
 その声が聞こえたのは小さく事務所内の空気が動いた、そのすぐ後だった。
 おや、と思いながらも陸人はそちらを見る。
 接客用のソファーからはみ出した、投げ出された足。
「今年は、蝉がなかんねぇ」
 所長用のデスクから立ち上がり、その対面に置いてあるソファーに腰かける。
 ソファーに横たわっていたのは予想通りの人物で、陸人は小さく笑みを浮かべた。
「福さん、お疲れ気味?」
「どうやろな……疲れてんのやろか」
 はは、と力なく笑って陸人を移す、双眸の色は赤。
 ソファーに散らばった白い髪に、それはよく映える。
 得意先の萬屋の店主・福乃に、陸人は笑みを深くした。
「海神絡みの依頼でしょ、その恰好じゃ」
「せーかい」
 普段であれば白い和服を着ている彼が、今日に限っては紺色の漢服を纏っている。
 それだけで、十分だった。
 ソファーに横たわった青年はぐるりと辺りを見回し、再び陸人を見る。
「アルビノは?」
「ウチの二人を連れて御買物。あと一時間は帰ってこないよ」
「置いてけぼりかい」
「御留守番、と言って欲しいね」
 喉元で笑いを転がせば、福乃も力なく笑う。
 鳶色の髪を傾げて、陸人は彼が言葉を紡ぐのを待った。
 こてん、と腕を額に乗せて、福乃は白い天井を見上げる。
「あんなぁ、陸人」
「なぁに、福さん」
「蝉は、幸せなんやろか」
「……蝉?」
 唐突な単語に、陸人は目を瞬かせる。年の割に幼い動作に、福乃は笑った。
 くすくすという笑い声は、何処か暗鬱なものを含んでいる。
「数年土の中で眠って、地上に出たとしたら一週間で、ホンマ、それは幸せなんかなぁ」
「うーん……幸せ、ねぇ。難しいなぁ。
 人間の『幸せ』の形と、蝉の『幸せ』の形は違うだろうからね」
 背をソファーの背もたれに預け、陸人は対面で横たわる青年を見る。
 黒に近い、紺の漢服。
 ――血がついても気付きにくいような。
「んー……でもまぁ俺は、幸せだと思うけどね」
「何で?」
「だって、さ、ホラ」
 陸人はその幼い顔に、満面の笑みを浮かべて返す。
「――ひとりは、いやだから」
 その言葉に、今度は福乃が目を瞬かせる番だった。
 暫くその赤い双眸を真ん丸く見開き――それからくしゃりと歪ませる。
「せやなぁ、ひとりは……嫌やなぁ」
「でしょー? 彼等は何年も独りでいなきゃ『いけない』。それに比べたら、例え一週間でも」
 その先を、陸人は言わなかった。
 事務所の中に、沈黙が降りる。
 遠くで蝉が鳴き始めた、その声がやけに大きく聞こえた。
「……陸人」
「なぁに、福さん」
「せやったら、鳴かへん蝉は、どないしたらええんやろな」
「……雌の蝉?」
「ちゃうねん。鳴けへん、雄の蝉は」
 額に腕を乗せて顔を隠したまま、福乃は笑う。
 彼がそう言う笑いを浮かべるのは、それなりにまいっている時だと陸人は知っている。
 おそらく今日も――元所有者の女性に、何かを言われたのだろう。
 傷を抉るような、何かを。
「独りで死んでいくしか、ないんやろか」
 笑いを含んだ声は、だからこそ悲しい。
「……そうかなぁ」
 指を組み、天井を見上げて陸人は呟く。
 それから目を閉じて、続けるべき言葉を探す。
「きっとね、聞こえる蝉もいるんだと思うよ」
「聞こえる?」
「そう――『小さな声』が、聞こえる蝉が」
 だからきっとひとりじゃないよ。
 そう呟き、目を開く。
「だってホラ、心暖(ここあ)ちゃんにはちゃんと聞こえたでしょ?」
「……せや、なぁ」
「だからそういう、福さんにとっての心暖ちゃんみたいなのが、その鳴けない蝉にもいると思うよ。
 ――俺は、そう信じてる」
 再び、沈黙が降りる。
 窓から差し込む光は橙を含み、ああもうすぐ日が沈む、とぼんやり思う。
「……なぁ、陸人」
「なぁに、福さん」
「俺は――チョコに触れても、いいのか」
「……心暖ちゃんに?」
「何か、最近……俺が触れた場所からチョコ――心暖が汚れて行きそうで、怖い」
 ぺち、と両手で顔を覆い、福乃はぽつぽつと呟く。
 普段彼が方言を使うのは、わざとだと陸人は知っている。
 こうして標準語で喋るのが、彼の地だと、知っている。
「福さん、それなんて言うか知ってる? ――自意識過剰、だよ」
「……うわ、酷いコト言うな陸人」
「だってそうでしょ。実際福さんの手は汚れてないワケだし?
 海神の仕事で汚れてる、って思ってるなら、それは福さんの自責の念」
 ねぇ福さん、と陸人は目を細めて彼の名を呼ぶ。
 死神と幸福、その両方の名前を持つ、白い青年の。
「自責の念があるなら、福さんは心暖ちゃんを汚さないよ」
「……そう、か?」
「多分、ね」
「……そう、か」
 はは、と福乃は幾分明るくなった声で笑う。
「すまんなぁ、陸人……何かいっつも、俺、こーゆーことばっかやなぁ」
「いいよー別に。それで福さんが楽になれるなら。俺は福さんの仕事変わってあげれないからね」
「なぁ陸人、もう一つ、ええ?」
「なぁに、福さん」
「――弱く、なったんやろか、俺は」
 ふぅ、と陸人は溜息を吐く。
 遠くで聞こえていた蝉の声が、途切れた。
 事務所の中は急速に闇に蝕まれていく。
「違うよ福さん」
 それはね、と陸人は言う。
 最後に残った斜陽が、彼の横顔を照らす。
 陰影の濃くなったその表情は、まごうことなき微笑みで。
「――人間らしくなった、って言うんだよ?」

。。。「おしぜみのなきごえ」。。。
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