糸の先
少しだけ違和感をおぼえて、太公望は無意識に手をのばした。 「どうかなさいましたか?」 毛並みを撫でられた犬のように、頰に触れられた楊戩が瞬く。 「……いや、べつに」 それきり口をつぐむと、男はひっそりと笑って身を寄せてきた。裸の肩越し、浸すような月明かり。敷布の微細な皺ひとつも漂白してしずむような。 夜はこんなにあかるかっただろうか、と何もわからなくされながらどこかで思う。なんとなく、落ち着かなかった。たましいをそのまま抱かれているみたいな気がする。口づけの合間から、やはり無意識に彼は探した。 「ようぜん」 いつも自分だけに落ちてくる、蒼い闇。 それは指の先で何度触っても切れていた。 「そんなにお気に入りでいてくださったんですか」 と見慣れない、短髪の恋人が苦笑した。
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蓬莱島教主の髪が短くなったのは数日前のことだった。 哪吒との修行と書いてバトル中に起こった、純然たる事故である。 二人の戦闘能力は、近年再び拮抗しつつある。執務が多くて体がなまっているというのは教主自身が断固として否定するところだったから、ゆうに二百近くは年下の哪吒の戦闘センスが成熟しつつあるのだろう。 火尖槍が近年また改良されたのに加え、新人の道士らが真似をして危ないという理由で、最近は楊戩が修行中髪をくくるようになっていたのが幸いだったのかどうか。 疾る劫火をすんでのところで避けた時、長い三つ編みはばっさりと切れた。 「わあ、色男」 と太乙真人が真っ先に言ったのは――いささか、哪吒の保護責任者としては軽はずみな発言であったかもしれない。
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「べつにこだわりがあって伸ばしていたわけではないんですが。小さい頃から長くしていましたから僕も慣れませんね」 楊戩がそんな風に恬淡としているので、太公望もつまらないとか寂しいとかは、とても口に出せることではなかった。 だからその代わりにこう言った。 「もう伸ばさぬのか?」 これぐらいなら雑談の範囲だろう、というつもりがあった。 楊戩がくすくすと笑い出して、 「伸ばしますよ。お姫さまがおかんむりですからね」 などとのたまったのは、だから彼にしてみれば大層不本意なところだったのである。
了
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