「余花の雨―傾城傾国・其の十一』 何処かの國。何処かの時代。 霧のように細かい雨の下で、濡れた緑が傘のように枝を広げている。黒馬は少し頭を振ると蹄の下の土を僅かに掻き回した。 「もう、少し。止むまでの辛抱だ」主人の言葉は、馬だけでなく、その隣にいる自分にも向けられたものだろう。 「………」 寒くはないか、という心配そうな視線には首を緩く横に振った。正直に言えば、山の空気は廉の予想よりも僅かに涼しかったから。 しっとりと重くなった絹の袖が体温を上げてくれる事は無かった。 だが、それを煩わしいとは思わなかったし、けぶるような景色を静かに眺めている時間も嫌いでは無かった。 「廉………」 溜め息と共に、頭から隆也の上着を掛けられるまでは。 ◇◆ 野駈けに行こうと誘われたのは、鮮やかに溢れていた春の花もすっかりと散ってしまい、小さな庭園も緑一色に覆われていたある日の事だった。 「山の方に行けば、まだ残っているかもしれないぞ」 引き出された黒馬の背は高い。馬と同色で纏められた馬具に腰掛けると、廉は背中に感じる温もりを振り返った。 何が、と問う淡色の眸に王は僅かに口元を弛めた。 「彼方はこの城よりも気候がかなり涼しい。花の咲く時期も遅いからな」 ――では、花を見に行くというのだろうか。 「それに、城に籠もってばかりは身体に悪い。廉も遠出は好きだろう?」 付き合え。不遜な言葉使いをしていても、廉が否と首を振れば隆也が無理強いする事は無いのだ。 「………」 何故、己のような立場の者の気持を彼が慮るのか。微かに感じた疑問も、廉が頷いた瞬間の彼の表情を見れば霧散してしまう。 「帰りは、夕刻になる」 慌ただしく伴の用意をしようとしていた家来達に一言告げると、隆也は強く手綱を引いた。 「……っ!」 「廉、舌を噛むなよ」 急に頬を嬲る風に、廉は瞼を伏せた。 城を出て一刻程駈けただろうか。丘を越え、森を抜け、これまでにないほど深い緑に囲まれた道を隆也と廉は馬を進めていた。 「時期が悪かったか――」 早すぎたのか、それとも遅すぎたのか。山に咲く花々は平地に比べれば遅くに咲くが、代わりにその色が盛りとなる期間が驚くほど短かった。 春から夏に移りゆく、ほんの一時。故に少しでも時期を逃せば見ることは適わない。 そうこうしているうちに、 「………」 冷たい感触が頬を伝うのに、細い指が触れた。冷たい。雨。振り仰いだ空は、いつの間にか重苦しい色に変わっている。 隆也が「これは降りそうだな」呟いた声にも焦燥が滲んでいた。 「…今から戻っても、雨の降る前には戻れないだろうな」 「……」 眉間に皺を寄せる王の袖を。廉の指がくん、と引いた。 「そうだな…雨が止むまで何処かで休んでいくか」 馬具から下り、手近な木の下に手綱を繋いだのを合図としたように、天から落ちる滴が、木々の葉を揺らし始めた。 細い枝を撫でるような音をたてて、滴り落ちた水の玉が下草を濡らしている。 人はおろか野生の動物の気配さえ無い景色の中で、不規則にこぼれ落ちる雨垂れの音だけが廉の耳に響いていた。 「悪かったな、こんな天気になると分かっていたら付き合わせはしなかったのに」 「……っ?」 隆也の声は低い。それが生来の彼の声の特徴というだけでなく、今の心境を如実に感じさせるものであったから、廉は俯くよりも小さく首を振った。 「そうか――」 自分の反応が彼を納得させられるはずもないのは分かっていたが、それでも何もしないよりはましだ。 短く切られた言葉の続きを辛抱強く待つと、隆也は、ふ、と息を吐いた。 「頼むから、そんなに、責めないでくれ」 「………っ!!」 「お、おい!」 隆也は、何を勘違いしているのだろう。もし今この時、廉に声が出せたなら、それこそ責める言葉の一つもあったかもしれない。 だが、それは隆也の思うような意味とはまるで違うのだが。 自分に比べれば余程小さな――簡単に掌で包み込めてしまう拳が黒繻子の胸元を叩くのを見て、隆也はさも途惑ったように眉間に皺を寄せた。 「……ぁ!」 結局、主人の思い違いを正したいという廉の願いは、ささやかながらも適ったらしい。怒ってないんだな。と念を押す隆也にはっきりと頷いてみせれば、彼も漸く深く寄せた皺を弛めた。 「だが、そうは言っても、残念だったな……」 「……」 その言葉に廉は頷こうとして――止めた。頷いてしまうことで、少しでも隆也が責めを負う気持を持ってしまうのなら、それは必要無い。 こうして二人だけで景色を眺めている。それで充分なのだ。 それは、簡単過ぎる望みの所為か、却って理解してもらうのが難しいみたいだけれども。 やがて半刻も経たない内に、雨の音も間遠くなってきた。目的こそ果たせなかったからといって、こんな場所で長居をする訳にもいかない。 だが、隆也が馬の轡を取り、痩身を馬上に押し上げるため腕を伸ばした時だった――廉の視界の隅を、淡い影が掠めた。 「………ぁ」 硬い腕の中からするりと抜けて、廉が跪いた。濡れた下草で衣の色が濃くなることも厭わずに、榛色が一点を見つめている。 突然の行動に虚を突かれた隆也も、余りに熱心なその薄い背中にゆっくりと近づいていった。 「廉…?」 「……ぁ、…ぁ!」 隆也は、何か言いたげに開かれた唇から、地面に付いた白い指に視線を流した。そして、廉の声にならない言葉の意味を知った。 「――残っていた、か」 淡紫。雨に濡れた薄い花弁の小さな一輪が、そこには、あった。 城の庭園に植えられている絢爛たる艶も持たず、見渡す限りの一面を染める廉の馴染んだ草原の花とも、それは違う。 ただの一輪でありながら、凛とした静かな空気を纏い、鮮やかでいながら落ち着いた。 見過ごされることを寂しいとも思わず、それどころか、人の手が触れる事を躊躇うような山の華――微かに漏れた吐息は、廉のものだったのか、隆也のものだったのか。 「…気に入ったのなら持ち帰るか?」 即座に首を振った愛人に、隆也が落胆した様子は無かった。 そうだな。と同意を示す呟きに淡色の瞬きが返ると、何処か決まり悪げな笑みと共に「昔、試した事がある」と答えが戻ってきた。 「………」 「すぐに、枯れてしまったけどな」 土の質も、気候も異なる場所は、どんなに手を掛けても花の命を削るだけで生かす事は出来なかった。 元の住処に返してやる間もなく儚くなった花の記憶は、痛みと共に消える事が無い。 「廉、お前は――」 「……?」 短い沈黙。細い首が傾げた廉の視線の先で、黒い双眸が苦しげに逸らされた。 しかし、飲み込んだ言葉の先を、城に到着するまでの間、隆也が口にする事は無かった。 ◇◆ 『――草原に戻りたいか?』 例え頷かれたとしても、その望みを叶えてやれるはずも無いのに。 だが、愚かな問いだと分かっていても、考えずにはいられなかったのは己の弱さだ。答えを聞けなかったのは、愚か者とさえ笑えない行為だが。 それでも、尚―― 「……すまない、廉」 呟きは石の床に。 答える相手もいない謝罪は、隆也の胸だけに響いて微かな跡を残す。 |
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