衛宮さん家のりりぃさん。 ~包丁とりりぃさん~

 リリィに料理を教えると約束した次の日の朝、早速士郎は行動に移っていた。
 一階の客間で寝ている彼女を起こさぬように身支度を整え、簡単な料理の仕込みをする。
 昨日の発言から察するに、リリィはまともに包丁を握った事すらないのだろう。
 そんな彼女に一から料理を教えるとなれば、かなりの時間が掛かる。
 ならば、リリィが起きる前に出来うる限りの事をやっておいた方がいい。
 それは、すでに弟子を一人持つ士郎だからこそ立てられた予想だった。
「おはようございまーす、シロウ」
「ん? ああ、おはよ―――お!?」
 背に声を掛けられたので振り返る。
 現在この家にいるのは彼を除いて一人だけだ。
 だからこそ、士郎は目の前の人物を記憶の中のそれと一致するのに時間が掛かった。
「……リリィ、か?」
「ふぁい」
 どうやら、そうらしい。
 アホ毛は力なく垂れ下がり、それに釣られるようにして目尻もダランとなっている。涎を垂らしていないのが救いだろうか。
 ポニーテールだった髪は解かれ、今はロングヘアーへと変わっていた。
 言葉に詰まるが、凛々しさや高貴さといった王に必要だろう要素をあらかた取り除いたら、恐らくこんな感じになるんだろう。
 ちなみに着ているものはドレスではなく、士郎が中学生の時に使っていた紺色のジャージだった。
 それを渡した張本人がその事を密かに後悔しているとも知らず、リリィは小さく欠伸をした。
 なるほど、彼女は壊滅的に朝に弱い体質のようだ。
「……とりあえず、顔を洗ってこい。洗面所の場所は昨日教えたから判るだろ?」
「ふぁい」
 きっと、彼女の中では「はい」と凛々しく返事をしているのだろう。
 寝ぼけ眼を擦りながらペタペタと洗面所に向かって歩いていくリリィ。
「ペタペタ?」
 疑問に思って少女の足元に視線を落とす。
 どういうわけか、リリィは素足だった。
 自慢じゃないが衛宮邸の掃除は行き届いている。
 裸足で歩いたところでなんら問題はないわけだが、なんというかイメージ的な意味でアウトだった。
 忙しく回る思考をよそに独立行動していた腕を止め、来客用のスリッパを取りに玄関に向かう。
 記憶が正しければ昨日の夜、リリィが風呂に入っている時に着替えのジャージと一緒に置いておいた筈なのだが……。
 そんな事を考えながら歩を進めていると、廊下の中央に見慣れたものが二つ転がっていた。
 ―――スリッパだ。昨日、リリィに貸した代物である。寝ぼけて蹴飛ばしてしまったのだろうか。
 ついと視線を横に滑らせれば、リリィの部屋の襖が半分ほど開いていた。
 頭ではダメな事だと理解しながら、それでも体が勝手にそちらに向かってしまう。
 心の中で襖を閉めるだけだから、と声高に言い訳しながらチラリと中を覗き込み―――士郎は首を傾げた。
 リリィに宛がった六畳ほどの部屋には何もない。そう、なにもなかったのだ。
 昨日、士郎は確かに布団を部屋の中央に敷いた。間違いない。
「自分で畳んだ……のか? あの状態で?」
 足取りもおぼつかなかったあのリリィが?
 一瞬浮上した考えを即座に否決してゴミ箱に放り込む。
 では、いったい布団はどこへ消えたのか。
 疑問符を浮かべる士郎の目に飛び込んできたのは、押入れの隙間からはみ出した白い布地だった。
 あれには見覚えがある。リリィに用意したシーツだ。
「本当に畳んでたのか……さすがは英雄、すごいな」
 妙な感心をしながら押入れを開ける。
 はみ出したシーツをきちんと仕舞おうとして、士郎は眼前の光景に違和感を覚えた。
 いや、ある意味これはデジャヴといってもいいだろう。
「ふ、布団が押入れの中に敷いてある……?」
 そうなのだ。
 どういうわけか、押入れの中に布団が敷いてあるのである。
 薄闇に目を凝らせば、シーツは半分ほど捲れ上がり、毛布は蹴られたように隅で丸くなっていた。
 士郎の脳裏に一つの仮説が過ぎる。
 これではまるで……。
「も、もしかして、リリィは押入れで寝てたのか!? どうしてそんな変な真似を……」
「―――見ましたね、シロウ」
「ひぃっ!?」
 唐突に背後から聞こえきた声に、士郎は飛び上がって驚いた。
 頭で風切り音を立てながら振り返ると、身嗜みを整えたリリィが顔を俯かせて立っている。
 彼女を見送ってからさして時間が経っていないのにも関わらず、服装以外は昨日の凛とした佇まいを取り戻していた。
 解かれていた髪もしっかりと元のポニーテールに戻っている。
「―――すみませんでした!」
 我に返ると同時に、士郎はその場で土下座した。
 どんな理由であれ、女性の部屋に無断で立ち入った罪は重い。
 正直、この場で首を刎ねられたとしても文句は言えなかった。
「……コ、コホン。シロウも反省しているようですし、当然ながら私にも落ち度はあります。ここはお互いになかった事にする、というのはどうでしょう?」
「い、いいのか? 俺としては願ったり叶ったりなんだけど」
 リリィの提案に土下座の体勢のまま、士郎は同意を示す。
 首を刎ねられる云々は兎も角、罵声の一つでも浴びせられるだろうと覚悟していた彼にとって、彼女の申し出は渡りに船であった。
「はい。ですから、いい加減に頭を上げてください。貴方はこの家の主なのですから。それで、ですね。……その代わりといってはなんですが、一つだけ条件があります」
「条件? 判った、俺にできる範囲ならなんでもする」
「シロウ、貴方のそういうところは美徳ですが、せめて相手の要求を聞いてから返答するようにしてください。悪徳商法にでも引っ掛かったらどうするんですか?」
 即答する士郎に、リリィがその整った眉根を寄せる。
 ジャージ姿だというのに、腰に手をあてて仁王立ちする様には妙な迫力があった。
 同様の事を同級生にも言われた経験がある少年は、困った風に頬をかく事しかできない。
 まさか英霊の口から「悪徳商法」なんて単語が出て来るとは思わなかったが。
 彼女の生きた時代にも似たようなケースがあったのだろうか?
「っと、話が逸れてしまいましたね。どうやら、昨日そして今のシロウの言動を見る限り、貴方には危機意識が足りないようだ。見ず知らずの人物を家にあげ、歓待し、あまつさえ宿泊させる。昨夜も言いましたが、私が悪人だったらどうするのですか? 金品を奪われるだけで済めばいいでしょう。しかし、人とは業の深い生き物。それだけに飽き足らず、更なる欲を満たそうと、貴方の命を脅かすかもしれない」
 ここまで一息で捲くし立てるリリィ。
 常人ならここで「お前がいうな」と突っこむところかもしれないが、生憎とここにいる少年はそのカテゴリには当てはまらなかった。
「それだとリリィの方が危ないんじゃないか? 女の子なんだし」
 臆面もなくそう言い切る士郎に、リリィは一瞬愕然としたかのような表情を浮かべて。
「……なるほど、一理あります」
 腕組みをして深々と頷いた。
 士郎は気が付くべきだった。
 リリィがこの時、口の端を僅かに吊り上げていた事に。
「だろ?」
「ええ。確かに、シロウのいう通りかもしれません。このままでは、私の身が危ない。ですから、今日からシロウの部屋で一緒に寝る事にします。よろしいか?」
「ああ、そうだな。リリィが一人でいるのは危ないし―――っ!? いや、ダメだろそれだけは!?」
 会話の主導権を握られて同意しかけるが、ギリギリのところで我に返って回避する。
 断固拒否の姿勢をとる士郎に対し、少女はもはや隠そうともせずに口角を吊り上げる。俗にいう、ニヤリという奴である。
「そうですか。ならば仕方ない。妥協案を出しましょう。シロウの隣の部屋で私は寝ます。それならいいでしょう?」
「ぐ、わ、判った。それなら、いいぞ」
 反論しようとするも、自分のできる範囲なら力を貸すという先の約束が彼を縛り付ける。
 結局、士郎はリリィの要求に是と返す事しかできなかった。
 一緒の部屋ではまずいが、隣の部屋ならまだマシだろう。
 隔てる壁が薄い襖一枚だとしても、あるとなしでは段違いだ。
 そう自分を無理矢理納得させる。
 肝心なところで抜けている士郎は、自分が部屋を変えればいいという逃げ道に最後まで気付く事はなかった。
「……ふっ」
 勝ち誇ったように笑うリリィ。
 この時になってようやく、士郎は自分が彼女の手の平の上で踊らされていた事に気が付いた。
 最初に無理難題を突き付け、次にちょっとハードルを下げた提案を出す。
 交渉術の初歩の初歩である。
「で、でも、リリィはどうしてそこまで部屋を変える事に固執するんだ? 押入れで寝てた理由も判らないし。狭いところじゃないと安心して寝れなかったりするのか?」
「……ぐっ」
 今度はリリィが押し黙る番だった。
 俯き、なにかに耐えるように歯を食い縛っている。
 そんな彼女の仕草を見ているだけで、士郎は自分の中の好奇心がスッと冷めていくのを感じた。
「ごめん、リリィ。無理に聞き出そうとして、本当にごめん」
「い、いえ、そう素直に謝罪されるとこちらとしては非常にやり辛い。……誰にも口外しないと約束してくださるのならば、お話してもよろしいのですが……?」
「いや、いいよ」
「―――お話しましょう!」
「いいって言ってんのに……」
 士郎がガックリと肩を落とす。
 話したがりというわけじゃないだろうが、リリィの食い付きはすごかった。
 訊かれると答えたくないのに、スルーされると途端に話したがるアレである。
「士郎にはすでにお話したと思いますが、私は生前ある国の王でした。王という立場にある以上、常に暗殺の脅威に晒されているといっても過言ではありません」
「そうか! だからリリィはわざわざ狭い押入れで寝てたんだな。イザって時は狭い部屋に居た方が対応しやすい―――ん? 普通は逆じゃないのか?」
 聞く限り、リリィの得物は剣だろう。
 槍といい剣といい、ああいった武器は閉所ではその性能を完全には生かせない。使い手が達人ならば尚更だ。
 それともリリィは暗器の類も使いこなせるというのだろうか。
「はい。ですから、隠れていたのです。刺客に見付からないように。精神的に楽な狭い部屋に……閉じこもって」
 最後の部分は小声で呟くようにいって、リリィは恥ずかしそうに俯いてしまった。
 なるほど、これで合点がいった。
 リリィが押入れで寝ていたのは、生前のトラウマがあったからだったのである。
 彼女の詳しい素性は判らないままだが、二十四時間命を狙われるような生活を送っていたらこうなるのも無理はないのかもしれない。
「シロウ、誤解しないで頂きたいのですが、もう克服したのです! ただ、慣れない環境に置かれて当時の事を思い出してしまい、一度思い浮かぶとどうしようもなくなって……気付けば私は押入れの中に戦略的撤退をしていました。でも、逃げてはいません!」
「うん。判った」
 両手で拳を作り、顔を赤くしながら力説するリリィを見てかわいいと思った自分は間違ってはいないと思う。
 士郎の中でリリィ≠勇敢な王様、リリィ=普通の女の子という式が確立した瞬間であった。
「ほ、本当ですか!? ―――あ、いえ、ご理解頂けたのならそれで結構。というわけで部屋替えの件、よろしくお願いします」
「了解。でも、寝ぼけて俺の部屋に入ってくるのだけは勘弁な」
「……善処します」
 苦虫を噛み潰したような顔をするリリィを見て、士郎は思った。
 前に同じ内容で注意された事があるんだな、と。

☆ リリィさんは朝が苦手。怖いのも苦手です。虫も苦手。弱点だらけですね。

☆ まさかの続編リリィさん。これくらいゆるいリリィさんですが、宝具は凶悪です。







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