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息するように嘘
『今日、同窓会って言ってたけど後からうち来る?』
暗闇の中、明子はポップアップに表示されたメッセージを流し読みして、電源ボタンを押した。アイコンは見慣れた彼氏のものだ。スマートフォンが先程までの沈黙を取り戻す。
2軒目の居酒屋から少し離れたこの通りは、まだまだ繁華街の賑わいを引きずっている。
「高田、結構、酔ってる?」
そうやって隣で笑う男の八重歯の感じは高校生の時と同じだった。腰に手をまわす自然さは初めての感じだったけど。
「そうかも」
くふふ、と笑いながらそっと寄りかかる。覚束ない足取りは酔いのせいなのか、ジーナのパンプスのせいなのか分からない。最近はスニーカーばかりだったけど、履いてきてよかった。
もうしばらくしたら彼氏に返事をしよう、と夜の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら考えた。
大学3年目、高校の同級生が県外に進学したクラスメイトが帰省するこの冬休みに合わせて同窓会を企画してくれた。
数年前、真っ黒に焼けて、彼がトラックを駆ける姿をいつも音楽室に面した廊下から見ていた。いつもサックスを抱えて。そういえばあれだけ練習したサックスなのに、大学生になってからは一度も演奏したことが無い。今の彼氏は明子がサックスを吹けることなんて知らないだろう。
明子の隣で身体を支えながら歩く彼は、青木という。下の名前はなんだっただろう。明子が彼のことを「青木くん」以外に呼ぶ機会は与えられなかった。
運動会で、彼がブロック対抗リレーを走ると歓声が起きた。高校3年生の夏、2人を抜き1位で彼がゴールテープを切った瞬間、周りがどっと立ち上がったのを明子は今でも覚えている。寄せ書きでびっしりと埋まった彼のハチマキは、隣のクラスでかわいいと評判の三宅さんが縫ったものだともっぱらの噂だった。
「高田、キレイになったね。髪長いの似合ってるよ」
一次会の席で感心したように明子を見た彼に、ちゃんとアイロンで巻いてきてよかった、と思った。
お互い彼氏がいるのか、三宅さんとまだ付き合っているのか、という話はまったくせずに、サークルでどんなことをしてるだとか、大学の教授の話だとか、バイト先の面倒な先輩のことだとかを話しているうちに、明子の二の腕はニット越しに、筋肉質な彼の腕の感触、あたたかさを感じていた。そうこうしている間に一次会はあっという間に終わり、二次会の会場にだらだらと移動する時も気づいたら彼が隣にいた。
彼のことを好きだったのだ、と思う。そして久しぶりに顔を合わせると、あの時と同じように胸がざわつくし、あの時よりずっと彼と気安く話せるのが意外だった。
そろそろ終電の時間だからお開きになるだろう、その前にお手洗いに行くかと席を立った。戻ってきたら案の定、皆お札を集めたり帰り支度をしていたりと騒がしかったが、当たり前のように彼の隣に戻った。コートを着込んでいるところで彼が言ったのだ。
「俺の家、歩いてしばらく行ったところなんだよね。飲み足りないだろ?うちで飲み直さん?」
その言葉が含むものなどなにも感じさせない爽やかさだった。
「…お邪魔しようかな、もうちょっと飲みたいけど終電いっちゃったし」
明子も微笑んだ。終電まで、まだ軽く30分はあったけれど。
高校生の頃は彼の家に行くなんて考えもしなかった。
どんな部屋なんだろう、明子はアパートの階段を上る。前を行く彼の背中を追いながら。
道中、そのままメッセージを無視していたスマートフォンを取り出す。
『いま盛り上がってカラオケオールしてるから、多分行かない。ありがと』
きっとこれから青木くんとするキスはジンの味だろう。明子はスマートフォンの電源を切って、バッグに放り込んだ。