20. Make Us One



 反撃の狼煙を、今。


   ***


 鬱々とするのはたぶん雨のせいもあるんだろう。
 降ったりやんだり、はっきりしない天気。どうせならぴかっと晴れるかどさっと降るか、白黒はっきりつけてほしい。ただでさえ気が滅入ってるっていうのに、空模様までがそれに拍車をかけている。
 彩子はちらりとキャビネットに目をやり、よく磨きこまれた曇りのないガラスに映る人影を認めると、大仰な溜め息を落とした。もちろん背後に控える黒服への当てつけである。
 こっちの抗議なんか聞きやしない、自分たちの組織に忠誠を誓った番犬たち。さすがに風呂やトイレにまでついてきたりはしないが、彩子の外出や外部からの接触―――すなわち電話や郵便物には敏感だ。
 かかってきた電話にはまず黒服の誰か(屋敷に10人ほど居座っている)が出て、相手を確認してから取り次ぐというのが暗黙のルール。郵便物は勿論中身までくまなくチェックされ、彩子の手元にやってくるときにはプライバシーの何たるかを誰かに問いただしたくなる無残な有様となっていた。
 晴子も同じような状態だった。彼女は自分と違ってこんな時にも穏やかで、招かれざる客たちに対しても「ご苦労様です」などと労いの言葉をかけたりして。ストレスが溜まっていないはずはないのに。
 それもこれも、全部あのバカのせいだと忌々しさに歯噛みしながら、脳裏に容姿だけは厭味なほど整った男の顔を思い浮かべる。流川がヘマをしなければ、今よりはいくらもマシな「名家の令嬢」という枠内での自由が保障されていたのだ。
 しかもドジを踏んだ張本人は恋人とふたりで失踪中。万一このまま海外へ逃亡でもしようものなら、あいつらお百度参りしてでも呪ってやる、と彩子は固く心に誓った。
 白磁のティーカップの冷めてしまったシナモンティーを飲み干すと、カタンと椅子を鳴らして立ち上がった彩子に、すかさず黒服から声がかかる。
「どちらへ?」
「……るっさいわねえ、新聞取りに行くのよ! もう朝刊って時間でもなくなっちゃったじゃないの、どうしてくれんのよ、あーもうイライラするったら」
「お待ちください、外の者に持ってこさせます。どうぞお寛ぎください」
「寛いでほしいならもっと気を利かせたらどう? 鬱陶しくも暑苦しそうな黒服見てたら一秒たりとも寛げやしないわ」
 彩子の憎まれ口には眉ひとつ動かさず、黒服は襟元にセットしたインカムマイクで外を見張る人間に指示を出した。やけくそでまたダイニングチェアに身を預けた彩子のもとへ、ほどなくして湿気を帯びた朝刊が運ばれてくる。
 柳眉を吊り上げてそれを受け取りテーブルの上へ広げた瞬間、彩子は刺々しさを隠しもしない声音で背後の男を怒鳴りつけた。
「ちょっと、広告がないじゃない! どこにやったのよ、広告チェックするのがアタシのささやかな楽しみなんだからね! 返しなさいよアタシの広告、今すぐ持ってこないなら窃盗の現行犯で警察に突き出してやる!」
 彩子の剣幕に、さすがの男も少々怯んだようだ。慌ててさっきの見張りをもう一度呼び出すと、チェックしたあと捨ててしまったらしい広告の束を持ってこさせた。令嬢と名のつく人間が新聞広告を好んで読む、というデータは彼らの頭の中に丸っきりなかったのだ。
 こちらも湿った広告類をひったくるようにして受け取ると、彩子はそれら一枚一枚にじっくりと目を通し始める。鬼気迫るほどの真剣さに気圧されて、男は思わず彩子から視線を逸らした。
 ゆえに―――気付けなかったのだ。
 苛立ちの曇ったフィルターに覆われていた彩子の瞳が、ふいにそれを払拭するほど強い光を孕んだのを。
 がたり、と先程よりも心もち荒々しく椅子を蹴って、また彩子が立ち上がる。今度は男がその意向を問う間もなく、彼女はリビングの扉を押し開けて廊下へ飛び出した。その手には一枚の広告が握られていて。
 雄々しくヒールを鳴らして屋敷内を闊歩する、彩子が目指した先は異母妹である晴子の部屋だった。
 追いすがってくる男を意にも介さず、彩子はマホガニーの重厚な扉をおざなりにノックした。「晴子ちゃん、開けるわよ?」と一応声をかけ、返事を待たずにドアを開ける。どうせ晴子も見張られているのだ、それにもともとの彼女の気質から考えても、晴子が部屋のなかでだらしなく過ごしていることなどありえない。
 整然とした部屋の中央にはカッシーナのカフェテーブルセットが置かれていて、革張りのアームチェアに行儀よく腰掛けた晴子は、ニットチュニックにスキニーパンツというすっきりした出で立ちだった。そのまま外出するのに何の差し障りもない晴子の姿を眺めやり、彩子は肉感的な唇に満足げな笑みをのせる。
「彩子さん? どうしたの、後ろの人、なんだか疲れてるみたいだけど」
 ハイヒールを履きながら競歩選手並みのスピードでここまでやってきた彩子の背後、見張り役の男は肩で息をしていた。「運動不足なんじゃないの」とばっさり切り捨て、そんなことよりと晴子へ歩み寄る。
「鬱陶しい天気よね、じめじめした家の中にこもってるの、気が滅入らない? 晴子ちゃん」
「え……」
「こんな日はパーッとお買い物でもしましょうよ。最近ふたりで出かけてなかったじゃない、たまにはお姉様が晴子ちゃんにぴったりなアクセサリーでも見繕ってあげてよ」
「彩子さん、急に何」
「ほら、見て」
 言うなり目の前に広告を突きつけられ、晴子は目を白黒させた。つるりとして光沢のある紙の表面に印刷されているのは、ハイティーンから20代の女性をターゲットにしていると思われる、繊細な細工のアクセサリーたち。
 屋敷からそう遠くないデパートの、彩子が好んで利用するアクセサリーショップの広告だった。
「うわあ、かわいい」
 寄り目になるほど近くから写真を見つめ、晴子が明るい声をあげた。「でしょう?」と返す彩子の声にも笑いが滲んでいて。
「ありえないほどの大売出しなのよ、価格破壊じゃないかっていうくらい。これはもう、買いに行かなきゃ大損よね」
「けど―――いいのかしら?」
 彩子の見張りと自分の見張り、ふたりの男を気にしつつ晴子が呟くと。
「いいに決まってんじゃないの、一緒に来たけりゃ勝手についてくればいいのよ。さ、用意して出かけましょ」
 晴子へにっこりと微笑みかけたそのままの表情で、彩子は肩越しに男を振り返る。猫のような瞳を妖艶に細めて。
 見つめられた男は意味もなくネクタイを締めなおすと、お供します、と小声で言った。


   ***


「新聞広告?」
 時間は数日前まで遡る。
 会員制の中華飯店、その一室で円卓を囲んだ5名のうち、赤毛の男が琥珀に透ける瞳を丸くした。驚きの視線を向けられた小柄な男のほうは、冷めてしまった百花蟹爪をもそもそと頬張っている。
 些か結束力に難のあるにわか編成チームとはいえ、一応役者の揃った密会の場。肚の読めない人間も混じってはいるが、これでも最低限の頭数なのだ、今はここにいる面々を信じるしかない。
 赤毛―――花道が無条件で信頼を寄せる相手、水戸洋平は着崩したスーツ姿で紫煙をくゆらせている。押し黙りながら頭の中では、会話から拾った断片を組み合わせて現状を分析しているようだった。
 流川も洋平と同じく無言を通しているが、こちらは話を聞いているのかいないのか、花道の隣で腕組みし目を伏せている。その反対隣では、知り合って数日たっても得体の知れない男である仙道が笑顔を崩さず、同じく聞き手に回りながら時々会話に口をはさむ。
 言葉を交わすのはほとんどが花道と宮城のふたり。初対面ではあれど妙にウマが合うらしく、主に彩子と晴子姉妹のことで話を弾ませていた。
「そ、新聞広告。アヤちゃんってお嬢様なんだけど結構庶民的なとこがあってさ、好きなんだよな広告読むの」
「へえ。そういやアヤコさんって遠慮なくズバズバ物言うし、深窓の令嬢ってタイプじゃねーかもな。美人なのにお高くとまってるわけでもねーし」
「そこがいいんだよ、気ぃ強いんだけどあれで意外とやさしいし。前に、なんでそんな広告好きなのって訊いたらさ、将来のための社会勉強してるのよって言うんだよ。それって俺の嫁さんになってくれる気があるってことかな、どう思う?」
「うーん、ミャクはなくもねーかもな、よくわかんねーけど」
「だろ? だよな、やっぱり?」
「ミヤギクンはアヤコさんの人生がっちり引き受けるだけの覚悟はあんのか?」
「当然だろ! アヤちゃんがお嫁さんになってくれるなら、俺の人生かけてすごく大事にするっての」
 胸を張った宮城の言葉に、花道はどさりと椅子の背凭れに身体を預け、天井を仰いで嘆息した。
「そっか……ハルコさんにもミヤギクンみてーに、人生丸ごと引き受けるだけの覚悟があるいい男、現われっといーんだけど」
 そう呟きながらちらと斜め向かいを眺めやれば、視線に気付いた洋平が苦笑しつつ肩を竦めた。短くなった煙草を灰皿で揉み消し、ゆっくりと口を開く。
「こればっかりはね。お姫様の気持ちが最優先でしょ」
 ―――洋平の言うことは正しい。
 このことばかりは花道がどう望んだとしても、晴子と洋平の気持ちが重ならなければどうにもならないのだ。眉を寄せて黙り込んだ花道の脇で、それまで寝ているのかと訝るほど静かだった流川が、ふっと長い睫毛を揺らして薄く目を開けた。
「……女のことなんか気にしてんな」
 くぐもった声で呟かれた言葉に、花道は目線だけを流川に投げると、返事のかわりにイーッと白い歯を剥いた。それを見た流川がますます不機嫌そうな顔をしたとき、しばらく無言だった仙道の声がして。
「いいねえ、それ使えそう」
 明朗とした声音に滲むのは楽しげな響き。花道がぎょっとして仙道のほうへと首をめぐらせる。
「使えるって何がだよ、まさかハルコさんを―――」
「違うよ、宮城君の彼女のほう。新聞広告って盲点じゃない?」
 真っ先に「ああ」と反応したのは洋平だった。朝はきっちり撫でつけられていたのだろう前髪がほつれて額にかかるのを鬱陶しげに掻き上げながら、テーブルに身を乗り出す。
「確かに。郵便物のチェックは厳しいだろうけど、新聞の折込チラシの内容までは目ぇ通さねえよ。よしんばチェックしたとしても、普段から広告読み耽ってるわけじゃねェんだ、多少おかしな点があったところで気付きゃしねえだろ」
「そういうこと。彼女にしかわからないようなメッセージを広告へ書き込んで、赤木家へ配達される新聞に忍ばせておく。多少自由がきかなくても新聞は毎日勝手に届くんだし、だったら絶対広告読むよね、彼女?」
「あ―――うん。俺んちの広告もちゃんと取っとけって怒るくらいだから、多分」
「筋金入りだね、カッコいい」
 宮城の答えにひゅっと口笛を吹いたあと、仙道は手掴みしたピータンを口の中へと押し込んだ。黒い卵を咀嚼しながら「ううん」と微妙な顔をして、紹興酒でそれを飲み下す。
「彼女が食いつきそうな広告ってどんなかなあ? スーパーの激安なんかでもいいんだけど、それだと他のに混ざって見逃されちゃうかもしれないし。宮城君とふたりでよく行くお店とか、思いつかない?」
「店……うーん、店なあ」
 考え込んでいた宮城だったが、ややして勢いよく顔を上げた。
「あっ、交際一周年記念にピアス買う約束してた! アヤちゃんが気に入ってるアクセサリーショップで、シャンパントパーズのかわいいのがあったからって。いっこずつ、お揃いでつけようねって言ってたんだ」
「あれ、まだ一年しか付き合ってないの?」
「うるせーな、口説き落とすのに時間がかかったんだよ! アヤちゃん照れ屋さんだから」
「ふーん。まあいいけど、アクセサリーショップの広告ってのは悪くないな」
 今度はライチを手にした仙道がつるりとその皮を剥き、乳白色の果実を「食べる?」と花道へ差し出す。それを横から奪い取ると、流川はあまい実をそのまま宮城へ押し付けた。
「どこの店だ」
 文句を言おうとした花道の口にはかわりに水餃子を放り込み、流川が宮城へと問いかける。
「Hデパートの8階に入ってるショップ。店名は確か―――“bébé bien-aimé”だったかな」
「愛しのベイベ! 恋人への呼びかけにぴったりじゃん。決まり、その店のニセ広告作っちゃおう。ちなみに赤木家で愛読されてるのって、どこの新聞かな?」
「ええと、多分S新聞」
 大仰に天を仰いだ仙道の質問に眉を寄せつつ宮城が答えると、洋平が「光栄の極みだね」と片頬を吊り上げた。
「あ、宮城君。彼ってS社の記者さんだから、仲良くしといたほうがいいよ。野球観戦のチケット貰えたりしちゃうかも」
「生憎、勧誘はしてねェがね」
 場にそぐわない能天気な台詞をバッサリ切り捨て、洋平はソフトボックスの上部を指先で叩くと煙草を一本取り出した。それを口元に運びながら、続けて口を開く。
「チラシを折り込むのは何曜日にする? 広告の少ねえ月から木が本来なら狙い目ではあるんだが、万一ってこともある。週末は折込が増えるぶんスルーされちまう可能性も高くなるけど、目立たないって利点はあるな」
「……だね。彼女の広告への情熱を信じて、週末に勝負をかけますか」
 仙道の決定に異論をとなえる者はない。花道が隣へ視線を走らせると、同じくこちらを見ていた流川と目が合った。
 自分たちにとっての本当の勝負は、その数日後。WBCファイナル当日だ。
 計画を成功させるためにも、いわば前哨戦であるこのステップで躓くことなど許されない。賭博の賭け金も彼女たちの未来も、必ず両方掴み取る。
 テーブルの下、誰にも知れぬよう重ねてきた流川の手を、花道はしっかりと握り返した。

「―――とりあえずは広告を至急でっち上げることだね。チラシを混ぜ込む当日は、お嬢さん方がメッセージをきっちり受け取ってくれたのか、店のほうで確認する人間も必要だな」
 段取りをさらう仙道に、掴みかからんばかりの勢いで花道が詰め寄る。
「それ、オレが行きてー! アヤコさんとハルコさんがその店にちゃんと来るか、見張ってりゃいいんだろ?」
「えー、桜木があ? ねえ、連中が血眼になって探してるのが一体誰だか、ちゃんとわかってんの?」
「わかってっけど、ハルコさんたち不安がってんじゃねーかと思って、心ぱ」
 心配で、と最後までは言わせてもらえなかった。流川が突然握った手に力をこめたからだ。そ知らぬふりをする流川を睨み付けておいて、花道が言葉を継ぐ。
「彼女たちのこと心配だし! 見つかんねーよう気をつけるから、その役オレにやらせてくれよ」
「……偽善」
「るせーぞキツネ」
 見えないところで手を握り合っているくせに、見えている部分は険悪だった。お互いにそっぽを向きながら、不機嫌を奥歯で噛み殺している。
「えーっと、どうしてもって言うなら折れてもいいけど。ものっすごく渋々折れるんだよ、そのへん忖度してよね、ちゃんと」
「どうしても。渋々もわかってる、だからセンドー」
「はいはい、わかりました。そのかわり変装してもらうよ、ちょっとやそっとじゃ桜木だってバレないように」
「なんでもする」
「オッケー、言質とったからね。あとで文句言ったって絶対に聞き入れません」
 仙道の言葉に続いて、その場へ忌々しげに舌打ちする音が響いた。当然ながらそれは流川の反応であり、さらに心底不服そうな声が続く。
「桜木が行くなら俺も行く」
 流川にとっては当たり前の、譲れない論法だった。花道ひとりを危険に晒すわけにはいかない。どうしても行くというならば、いつでも手の届く場所に自分もいなければ、到底許せなくて。
 けれどその主張は、仙道によってあっさりと撥ねつけられた。
「ノンノン、それは認められないね。ひとりずつでも目立つのに流川とふたりで出歩くなんて、捕まえてくださいって言ってるようなもんだよ。桜木には俺が同行するから」
「ふざけんな、んなこと許すか」
「許すとか許さないとかじゃないの。あんまり面倒臭いこと言ってくれちゃうと、もう俺匙投げちゃうよ? おたくらのご実家に匿名で連絡入れちゃうよ?」
「―――てめえ、そのうち絶対ぶっ殺す」
「楽しみだなあ、それ。とにかく、流川には別で用事頼むから、一日だけ我慢して桜木と別行動ね。悪いけど宮城君はそっちに付き合ってやって、それから水戸君にも別でお願い事しちゃっていい?」
 宮城と洋平が頷くのを確認すると、仙道は話し合いの始まりと同じように、パンパンと二度手を叩いた。
「ハイ決まり、それじゃ今日はお開きってことで」
 ぐるりと面々を見渡したあと、最後に剣呑な表情の流川へ視線を定めてニヤリと笑む。
「よろしく頼むよ、绅士诸位(シェンシージュウェイ)」



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