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恋のスパイス(1)




 ぽつんと灯った玄関の外灯が雨の帳に滲んでいる。夜半を過ぎて雨足は幾分弱まったものの肌寒さは相変わらずで、車から降りた途端にブルッと身震いが出た。典型的な梅雨寒の一日、それも随分と長い一日がようやく終ったのだが、恐らく明日も似たようなものだろう。待ち侘びた夏の休暇が目前に迫ったこの時期、まるでラストスパートと言わんばかりにスケジュールは目白押しだ。
「それじゃ、明日は十時に迎えに来ます。少しだけどゆっくりして下さい」
「ご苦労でした」
 タクシーでも事足りるところを自ら運転手を務めて送り迎えしてくれるのは、宅島なりに僕を気遣ってくれているのだろう。仕事が深夜に及んだ翌朝には、少しばかりの余裕を作ってくれるところも。その気持ちは有難いのだが、正直なところ少々的外れと言わざるを得ない。なにしろ大学勤めの悠季とは生活時間帯がずれてしまうのだから。
 一応の礼儀で路地を曲って行くテールランプを見送り、足早に門を潜る。改めて我が家を見遣って、思わず溜息が零れ落ちた。
「ああ、やはり間に合いませんでしたか……」
 ピアノ室の灯りが消された前庭は闇に沈み、寝室の窓は閉じられたカーテンの色を仄かに浮かび上がらせている。あれはベッドサイドのスタンドだけが灯されている証、悠季はもう休んでいるのだ。自分の鍵でドアを開け、なるべく音を立てないように細心の注意を払って玄関へ滑り込む。それでも古い家の重い扉は僅かに軋む音を立ててしまうのだが―――もし、まだ悠季が眠っていなければ、気づくほどには。
 目礼で光一郎氏に帰宅の挨拶をしてから、僕は暫くの間そのまま三和土に立って耳を澄ましていた。だが、悠季が降りてくる気配はない。諦めてシンと静まり返った室内に上がり込み、真っ直ぐ台所へ向かった。そこには多分、悠季の書き置きがあるからだ。
 日本茶の仕度が整えられた盆に添えられたメモを手にとって目を走らせた。

  『 圭へ
   おかえり。遅くまでお疲れさま。
   明日の朝は少しゆっくりだったよね?
   何時に起こして欲しいか、希望の時間を書いておいて下さい。
   先に寝ちゃってごめんね。
   愛してる。         悠季 』

 ヨーロッパ・ツアーから帰国したのは一昨日のこと。休む間もなく番組録りの仕事に出た昨日はアクシデントに次ぐアクシデントで予定が延びに延び―――悠季が待っていてくれると思えばこそ逐一連絡を入れたのだが、最初から先に休んでいてくれと言うべきだったのだ。散々待たせた挙句に僕が帰り着けたのはとっくに日付が変わった後で、悠季は待ちくたびれてピアノ室のソファで眠り込んでいた。
 そして、今夜もまた。

  『 悠季へ
   遅くなってすみませんでした。
   是非きみと一緒に朝食をとりたいので、同じ時間に起きます。
   愛していますよ。        圭 』
 
 熱い日本茶を淹れて啜りながらメモ用紙の余白に希望というよりは僕の意志を書き付ける。書きながら、こんな虚しいすれ違いもあと少しの辛抱だ、と自分に言い聞かせた。悠季は例の如く夏休みと言えども忙しい毎日だろうが、僕さえオフになれば彼に合わせることが出来る。少なくとも、同じ屋根の下で暮らしながらメモに頼らなければ会話も交わせない事態は避けられるはずだ。
 湯飲みを洗って水切りカゴに伏せ、一階の風呂場でシャワーを浴びてから二階へ上がった。


 悠季はよく眠っていた。
 このところの肌寒さに合わせて薄い羽根布団を使っていたのだが、それを元気よく蹴り飛ばし、すんなりと美しい手足を伸び伸びと寛がせて。
「おやおや、暑くなったのですか?」
 愛らしく微笑ましい姿に、思わず口元が緩む。パジャマを着ていてくれたからどうにか自制が効くものの、もしもバスローブ一枚であったりしたら、僕は即座に襲い掛かっていただろう。冷房を入れてからベッドの端に腰掛け、仄暗い灯りに浮かび上がる無邪気な寝顔と寝姿を暫くの間眺めて楽しむ。
 こうしてきみの寝顔を見られるだけ、まだ幸せだと思うべきなのだろう。
 ろくに会うことさえ叶わなかったあの頃に比べれば。
 部屋が涼しくなるのを待って腹の上にだけ布団を掛けてやった。
「ただいま帰りました。おやすみなさい、悠季」
 薄く開いた唇に触れるだけの口づけをしようと屈みこんだ時、ふわっと馴染みのない匂いが鼻先を擽った。ルームフレグランスのようでもあるのだが、その割には人工的な甘さを感じない。リネン類に付いたポプリの匂いだろうか、と首を廻らせて、ようやくその存在に気づいた。ベッドサイドの僕の側のナイトテーブルに小振りの鉢植えが置いてあった。
 真っ直ぐに伸びた細い茎は鮮やかな緑色。その先に薄紫の小さな花がひしめき合うように咲いている。まるで麦の穂を思わせる花姿だ。匂いを確かめようとベッドの足下を静かに回って近づき、そっと鼻先を寄せてみる。野性の生命力といったものを感じさせる青臭さの中に、どこかスパイシーにも思える花の香り。嗅いだことがあるような気もしたが、花にもフレグランスにもさして詳しくない僕には、この花の名前さえ判らない。だが、部屋に自然の緑があるというのは目にも優しく、心癒される思いがする。それゆえ悠季は、これを僕の枕元に置いてくれたのだろう。
 バスローブを床に脱ぎ落として、そっとベッドの中へ滑り込んだ。何度か身じろいで楽な姿勢に落ち着いたところで、悠季が寝返りを打って僕の胸に摺り寄ってきた。
「悠季?」
 囁き声で呼んでみる。
 起こしてしまっただろうか、と危惧する僕と、ひと言でもいいから言葉を交わしたい、と期待する僕が入り混じっている。果たしてどちらがより強く、より本音の僕なのだろう?
 澄んだ瞳は閉じられたままで、薄紅色の唇も言葉を紡ぐことはない。だが、枕と首の隙間に差し入れた腕に、悠季はまるでそれが当たり前だと言うように頭を預け、より深く僕の懐に潜り込んできた。
 背中を抱き寄せる前に自由の利く手でリモコンを操作して冷房を緩くし、スタンドの灯りを消した。もしや今度は寒くなったのかも知れない、と思ったからだった。この季節の温度調節は実に微妙で厄介だが、悠季に風邪をひかせる訳にはいかない。
(そういえば……随分昔に、似たようなことがありましたね)
 あれはまだ、僕らが恋人同士とは呼べない間柄だった頃のこと。指一本触れてしまわないように、と気を遣いながらひとつベッドを分け合って過ごした、歓喜と苦悶と緊張に彩られた数日間。真夏のことだからと冷房を強くしていたら、明け方に寒くなったのか、きみは無意識に僕の懐に潜り込んできて……。タイマーで何とでも調節できるものを翌日以降もそのままにしていたのは、少しでもきみに触れたかった僕の計略。病人だったきみの身体のことを思えば随分身勝手な所業だったと、今となっては恥じ入るばかりだが。
 僕も幾らかは成長できたということだろうか? 
 いや、この余裕はきみが僕を受け入れ、愛してくれるようになったが故に生まれたもの。
 どんなにすれ違いの日々が続いても、きみの心はこうして僕の腕の中に在るのだと信じていられるからだ。
 感極まってきつく抱きしめたくなる衝動を、柔らかな髪に口付けて堪える。ふわりと鼻腔を満たした悠季の匂い。暗闇の中では、香りは一層鮮やかで濃密になる。あの花の匂いも同じだろうか、と部屋の空気に溶け込んでいるはずの香りを追いかけて深い呼吸を繰り返すうちに、とろりと瞼が重くなった。スケジュールが詰まれば詰まるほど、身体は疲労困憊していながら神経が尖って上手く寝付けなくなるのだが―――睡魔は優しく訪れて、僕は程なく眠りに引き込まれていた。



  つづく


 



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