「笑うかのこ様」「恋だの愛だの」より『図書館』



その日、富ケ丘では少し珍しいことが起きていた。
「あれ?椿が図書館?なんでいんの」
キョトンとした顔で尋ねる少年は名を夏草透太と言う。
透太は珍しいものを見るような眼をしていた。
「お前がいるのも珍しいだろ」
椿と呼ばれた少年―名を初流と言う―は冷ややかな目を透太に送りながら言う。
その言葉を受けて、透太はそりゃそうだと笑う。
透太のこの屈託のなさは長所であり、短所でもある。
「レポートの宿題が出たんだよ。めんどくせーよな」
透太はそう言い、初流の手の中にある本へ視線を走らせる。
「んで、お前は?何読んでんの?」
そう言って覗き込もうとする透太の目の前で、初流は持っていた本を閉じる。
一瞬見えた中身は、透太には何を言っているのかさっぱり分からない世界だった。
挿絵はあるものの、その挿絵が何を意味するのかわからない。
閉じたことによって表紙が見えるようになり、透太の目に心理学という三文字が飛び込んでくる。
「レポート、でもないよな?高校生に心理学なんて聞くわけないし」
漫画を読まない椿なんて想像できないけれど、椿と心理学なんてなーと透太は笑いながら言う。
透太のこの感想も無理のないもので、初流という人間は基本的に漫画を読む姿しか普段は目撃されない。
何かを読むとしたら漫画。漫画以外で何かを読むとしたら何を読むのかと聞かれたところで、透太には皆目見当がつかない。
ただ、漫画ばかり読んでいても透太たちよりもずっと頭がいい。
それが初流という人物像だった。
「ん?ああ、これは違えよ。ちと気になることひけらかした奴がいて確かめに来ただけさ」
お前のレポートはどうなんだよ、深く追求される前に初流は話題を転換させる。
「ああそうだった!生物生物……なあ椿、お前植物の棚どこだかわかるか?」
透太が聞く。初流はこれ幸いと持っていた本をその辺の棚に戻して、植物の棚へと透太を案内する。
「お前場所知らないできたのかよ」
にやにやと笑いながら初流が言う。
「番号はちゃんと調べたんだけど、棚の並び方がさっぱり理解できないんだよ」
少しムスッとした表情で透太が答える。
図書館の本はちゃんと規定された分類番号によって並べられている。
だから、何百番台ならどの辺と大まかなあたりをつけて探すことは可能だ。
初流も透太もめったに図書館には来ない人間だが、そのあたりがつけられる分初流のほうが大まかな場所がわかる、というわけだ。
「サンキュー椿。助かったよ」
目的地に着いた透太は心底うれしそうに言う。
本当に裏がないと言うのか、感情の変化が激しいと言うのか。
透太は嬉々としてレポートに必要そうな本を物色する。

物色した本越しに、透太は初流の様子を時々観察していた。
はじめは恋のライバルであり少し苦手な人間だったが、いつの間にか平気になっていた。
今では積極的に話しかけるし、普通に返事も返ってくる。
透太が変わったのかもしれないし、初流が変わったからなのかもしれない。
とりあえず、透太に対しても優しくなったことが透太は嬉しかった。
少し前の初流だったら、透太はきっと場所を聞くことはしなかっただろう。
そして初流も、場所が分からず困っている透太を鼻で笑っていたかもしれない。
それが、ないのだ。
それはきっと、友達として認めてくれているということなのだろう。
だから透太は嬉しい。
レポートとか勉強とかは苦手だけれど、頑張れそうな気がしてくる。
ちなみに、透太に与えられたレポート課題は植物の分類とその特徴を調べて来いというものだった。
シダ植物や藻類と言った中学レベルの分類でいいのだが、これらがわからないとその後の授業がついていけないからと全員に与えられた課題である。
被子植物・裸子植物程度なら透太もわかるが、単子葉類と双子葉類、主根・側根・根毛とひげ根どっちがどっちかなどときたらもうわからない。
合弁花・離弁花に至っては普段どちらかと言えばよく花を見る女でなければ分からない世界ではないのかと聞きたいほどだ。
豆類が自家受粉できるとかそちらの知識のほうが求められているので、別に知らなくてもいいことではあるのだが。
どんな本がレポートの参考になるのか、透太は手に取った本をぱらぱらめくっては考え込む。
図書館だから静かなのが当たり前だが、隣にいたはずの人の気配がない。
そのことに気づいて透太が横を見てみると、もう初流の姿はなかった。
真剣に悩んでいて特に気に留めていなかったが、そう言えば帰るとか何とか言っていたっけ。
結局あいつはなにしにきたんだ、一瞬浮かんだ疑問は次の瞬間にはレポートのことで消えた。

初流が図書館に来た理由はいたって単純だった。
入学式の日、かのこが何かと一緒にいた新聞部の先輩が心理学でいうところの同性愛期とかそういう奴かしらと初流にこぼしたことが気になったからに他ならない。
何が、と聞けばかのこの精神発達レベルが、とのことだった。
私もうろ覚えの記憶だから言葉とか間違っているかもしれないけれど、と念を押したうえでその先輩は教えてくれた。
なんでも、第三者の立場から見ると初流の立ち位置は不憫としか言いようがないから同情として教えてくれたとか。
その時は何のことなのかさっぱり分からなかったが、本を見てなんとなく同情の意味がわかった。
人間の精神発達過程において、同性に対して愛情を覚えるという発達課題をクリアした後で異性に対して愛情を覚えるらしい。
もちろんこれは、種の保存という生物の本能の観点から考えた“普通”の人類の成長過程での話だ。
いわゆる同性愛者とかはまた別の発達過程を持っているらしい。
何が普通で何が異常とか議論する気はないのでこの話題はとりあえず脇に置いておく。
とりあえず、先輩が言いたかったことはきっと初流と同じでかのこはまだ幼稚だと言うことだろう。
精神発達が未熟で、同性への愛情をようやく持ち始めたころなのだから焦らず待ちなさいと。
この時期を過ぎれば、きっと異性へ興味を持つだろうからその時まではつらいだろうけれど我慢しなさい。
きっと、そう言いたかったのだろう。
気を遣われていることも、それまで待たなければならないことも癪だった。
しばらくはずっと、いい友達としてそばにいることが自分のためであることは分かっている。
わかっているけれど、納得できない。
そんなことを思っていた時、初流は透太に声をかけられたのだった。
透太に驚かれることは心外だったが、確かにお互い図書館とはほぼ無縁の生活をしている。
だからだろうか。ここが図書館だと言うことを忘れて少しいろいろと話してしまった。
透太の本探しを手伝い、用のすんだ初流は帰路につく。
目的はもう果たしたのだから、図書館に用はなかった。

――今の、椿君と夏草君だよね?
桃香が書いた紙をかのこの前に滑らせる。
かのこと桃香は図書館でお互いの宿題を片付けているところだった。
家にいるとついつい遊んでしまうから、と桃香が提案した結果だ。
もちろん図書館にいるため、二人ともほとんど言葉を交わさない。
二人とも一緒に宿題を片付けられたらそれでよかったので、不都合はなかった。
時々話があるときは、こうして筆談で会話していた。
――そうだね。二人とも、図書館にいるってことわかっていないのかな。
かのこが桃香の下に返事を書いて桃香の前へ滑らせる。
かのこと桃香は席一つはさんで隣に座っているので、紙を滑らせなくても実はお互い相手が何を書いているかは確認できる。
ただ、滑らせた方が相手にとって読みやすく、返事が書きやすくなるという配慮から。
かのこがまだ何か言いたそうなのを察知したのか、桃香はなにも書かずに紙をかのこのほうへ戻す。
――まったく。図書館でおしゃべりなんていい身分だよ。
渡された紙に、かのこはそう書く。
――そうだよねー。椿君、なんで心理学の本を持っていたんだろう?夏草君はレポート、大変そうだねー
桃香がそう相槌を打つ。
図書館なんて場で話をするから、会話の内容はかのこたちに筒抜けだ。
初流が心理学の本を読むと言うのはかのこも気になるところだった。
誰が、何の目的で初流に話したのか。それも気になるが、きっと初流は教えてくれないだろう。
――ま、私達も宿題やらなきゃ大変なことになるよ。夏草君が来るかもしれないから少し片付けようか。
もし、透太が本を借りてすぐに帰ると言うことをしないならきっと来るだろう。
桃香はかのこの書いた文章を読み、頷いた後少し周りを片付ける。
かのこも必要なものだけ机の上に出し、それ以外は鞄に戻すなり、机の上に山積みするなりして片づける。

そして二人でまた黙々と勉強を再開させてしばらくすしたころ。
「あれ?苗床と花井じゃん?」
奇遇だねーという透太に、かのこと桃香はしーと二人同時に指を口に当て注意する。
そこで透太は自分の失敗に気づいたようだ。
二人に近づき、声のトーンを落として勉強?と聞く。
それにはかのこが、そうだよと小声で答える。
桃香はかのこのほうへ一つ席をずらして透太に譲る。
透太は譲られた席に座り、抱えていた本をペラペラめくる。
この後三人は図書館を出るまで特に言葉を交わすことはなかった。
そんな図書館とは縁のなさそうな面々が偶然図書館にそろったある日の出来事――




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