※終端の王と異世界の恋人たち※ これは終端の王と異世界の恋人たちの壮大にしてはた迷惑な戦いの物語である。 太古の宗教感は抹殺されても根絶はされない。 それはどんな時代、どんな地域においても立証されてきた事実。 ギリシア神話の冥府神ハーデスもその一柱である。キリスト教が欧州諸国を席巻し多くの神々がその座を追われても彼はただ一人、その名と神格とを残した。 そんな彼も現代において人間の少女にペルセポネの冠を被せて妻として娶り、幸せに暮らしている。 彼の地獄に愛が絶えない。 「はい、ハーデス。お茶ですよ」 「ありがとう」 まだ15歳になったばかりの幼い妻は亜麻色の髪。優しげに微笑むその頬は健康的に白い。 妻お手製のパウンドケーキを頬張りながらハーデスは至福のティータイム――要するに3時のおやつ。 「どうですか? 初めて作ってみたんだけど」 「うむ、ほんのりとラム酒が効いていて美味だな。さすがは瞬だ」 「ふふ、ありがとう」 そんな穏やかなひとときを、騒音がぶちぬく。異様な気配が冥界中に広がった。 「な、なんだ?」 「なんでしょう」 ジュデッカにある冥王夫妻の新居さえも揺るがす爆音と振動。小宇宙ではない何かが震える。 「瞬はここにいろ。余が見てくる」 「いいえ、私も一緒に行きます。大丈夫、聖闘士ですから」 そういった瞬の手を、ハーデスはしっかりと握る。 「では、ともに。余から離れるでないぞ」 「はい」 睦まじい冥王夫妻は激震する冥界に飛び出した。 ふたりとも神聖衣、あるいは冥衣をつけて冥界を駆け抜ける。 第1獄はすでに壊滅していた。 裁きの館は廃墟と化し、守護者であるはずの天英星バルロンのルネの姿はない。 「いったいなにが起こったのだ、ルネはどこに行った」 「わかりかねます。突然この裁きの館を何者かが襲いまして。ルネ様は狼藉者らに自演乙と言われてお倒れになりました!」 「自演乙?」 意味がよくわからないが、とりあえずルネは撃沈したらしい。報告した冥闘士に冥王妃たる瞬が訪ねる。 「狼藉者らってことは、複数いるのですか?」 「はい、2名です」 「……たった2名にここまで荒らされておるのか?」 「はい、我々には手に負えません!」 狼藉者の姿はすでに第1獄にはない。 「ええい、それでも冥闘士か! ラダマンティスはどうした!」 「いろんな意味でアンニュイになってます!」 「使えんやつめ!」 それでも三巨頭の一角なのかと冥王は頭を抱える。 そんなとき、崩壊した第1獄を再び何かが襲った。冥王は剣を解き放ち、結界を張る。 「瞬、大事ないか」 「はい、大丈夫です。でもあれは……」 ハーデスの腕の中から、瞬は冥界の上空を暴れて回るふたりの人物をみた。 「あれは……」 「……文王と、その奥方か?」 廻る廻るのは緋色の風車。 「そうみたいですね。でもなんでこっちの冥界で……」 「とにかく止めんと、これ以上続けられたら冥界が崩壊する!」 「そうですね!」 風と空間なら負けないぞと冥王夫妻はなぜか暴れる文王夫妻を止めるべく立ち上がった。 文王とその妻・太公望の戦いは熾烈を極めていた。 「だから、謝っただろうが!」 「謝ってすむ問題ではないわ! 食らえ! 宝貝・誅仙陣!」 「くそっ……」 八卦陣に取り囲まれた文王はそこから出ることはできない。やがてしんしんと降り出した雪が彼の肌を溶かしていく。痛みに文王は顔をしかめた。 「深々と溶けるがいい……」 「望、やめてくれ……!」 文王は望に向かって哀願の手を伸ばす。けれど彼女は冷たく笑った。 「さらばじゃ……」 「望!!」 文王の最後の声が、陣を解いた。 「……ばか昌めが」 「誰が馬鹿だ。全く、神様じゃなかったら死んでたぞ」 「なにっ」 望が振り返る前に、文王が彼女の首筋にかみついた。生温かい感触と歯噛みされる鈍い痛み。 「うあああっ」 望は身をよじって逃げ出した。文王が自分の唇を舐める。 「望は仙人界一のイカサマ師かもしれないけど、忘れてただろ」 「な、なにをじゃ……」 「俺が、殷王朝で五指に入る謀り上手だってことを」 復讐の意志をおくびに出さず、黙って王朝に仕え続けた西伯侯。その苛烈な炎はやがて革命に姿を変えて息子へと引き継がれる。 望は噛まれた首に手を当てた。ぬるりと湿った感触に不思議と嫌悪を感じない。 が、もちろん噛まれりゃ痛い。 「……忘れておったわ、わしとしたことが」 「おイタがすぎるぞ、望。そろそろお仕置きの時間だ」 文王は望に視線を向けたまま腕の傷をぺろりと舐めた。 じりじりと間合いと詰めていく文王と望。 その二人の間を紅色の風が刃のように吹き抜けた。望の黒衣の袖を裂いて虚空に消える。 「これは、風? わし以外に風使いが……」 「私をお忘れですか、太公望さん」 「宿鎖王女にして冥王妃の瞬……!」 薄紅色の蝶の羽で彼女は冥界の空を舞う。 「なるほど、おぬしか」 「おふたりとも、もうやめてください! なぜ中国にお住まいのはずのあなた方がここ欧州の冥界を荒らすのですか! いったいなにがあったんです?」 「……え?」 「えって……」 瞬に指摘されて、ふたりは落ち着いてゆっくりと足下を見下ろす。見下ろせば暗い大地、揺らめく炎は死者の嘆きと悲しみを抱えて燃える。 ふたりは顔を見合わせた。 「あれ、確か自分ちで喧嘩を始めたような……」 「ここ、どこだ?」 とはいえ、ふたりの足下に広がる見覚えのない風景。 地獄門のそばにあった白亜の裁判所は廃墟と化している。 瞬の登場で収束した文王夫妻の大喧嘩。 降りてきた瞬を抱きしめ、冥王が安堵のため息をついたのはほんの一時のことだった。 「は? 胡麻団子?」 喧嘩の理由を問われ、答えたのは太公望。 胡麻団子とはあんこ玉を団子粉で作った生地で包み、胡麻をまぶして揚げて作った中華を代表するお菓子だ。 「そう。わしが食べようと取っておいた胡麻団子を昌が食べてしもうたのじゃ」 ちらと望が昌をみれば、昌はぽりぽりと後ろ頭を掻きながら言った。 「なんか口寂しかったんだよ。それにちゃんと謝って新しいのも買ってきたじゃないか。それなのにいつまでもぐちぐちと」 「楽しみにしておったおやつが突然消える気持ちがおぬしには分からぬのか!」 「だからって」 「やかましいわ!」 またしても喧嘩を始めた文王夫妻を前に、ばんとテーブルをたたき、がっと目を光らせる冥王。 通称・冥王光線が文王と望を襲う。 「たかがおやつの胡麻団子くらいでうちの冥界を木端微塵にされてたまるか!」 冥王のお怒りもごもっとも。 瞬は口を挟まず、ただ小さく笑うしかできないでいる。 「いや、その……」 「面目ない……」 すみませんでしたと謝罪して帰ろうとする夫妻を、冥王は逃がしはしなかった。 「って、このまま帰らせるわけはないだろうが!」 「あはは、やっぱりのう……」 冥王は再びばんばんとテーブルを叩く。 昌と望は諦めて座り直すしかない。 建物的な被害は第1獄だけで済んでいるが、これが冥界にとっては大問題なのである。第1獄・裁きの館は裁判所である。ここで死者の魂を裁いて各地獄へ送る。 裁判所は崩壊、判事のルネも心と体に大きな傷を負って、職務に復帰できるのは当分先になりそうだ。彼女は三巨頭のうち、ミーノスの代行者であるため、裁判に差し障りはなさそうである。が、穴があいた事実は否定できない。 さらにラダマンティスはというと未だにアンニュイになったままであるという。こちらはいつ回復するのか分からない。 「この穴は埋めてもらうからな、豊都北陰大帝殿?」 それは冥府における文王姫昌の神号。 彼の職務はルネやミーノスのそれと酷似している。 昌は冥王から視線を逸らしながら言った。 「いや、俺もあっちと兼務はちょっとつらいかなって」 「奥方でもかまわんぞ。なあ、始祖・伏羲殿?」 話を振られた望もまた、昌とは逆の方向に顔を背けた。 「わしも事務は苦手かなーって」 「なにをご謙遜を。文王・武王と二代の王に軍師として仕えたあなたが、事務は苦手などと。まあ、土木作業でもかまわぬ、土止めだろう?」 「くっ……」 分が悪い、悪すぎる。 文王夫妻は再びすみませんでしたと深々と頭を下げた。 「最近おうちにいないと思ったらここにいたッスか」 資料整理を四不象に手伝ってもらいながら、望は簡略化対策も万全の状態でパソコンの前に拘束されていた。風使い、空間使い、そしてにょろっと簡略化する望は、その意味では性質の悪い脱走のスペシャリストだ。 それはともかくとして死者の名簿をデジタル化する動きはどこの冥界でもあるらしい。 「姫昌さんはどうしたッスか?」 「昌はあっちの仕事もあるから、わしが倍、働かねばならぬ……」 それでも帰ればご飯を作って待っていてくれるのだから、なんだかんだと優しい夫であると言えよう。 「だったらはじめから喧嘩なんかしなきゃいいのに……」 「うう~。今更言わんでくれ……」 「はいはい」 後悔先に立たず。先人はいい言葉を残してくれた。 そこにお茶を持って瞬がやってきた。 「お疲れさまです、太公望さん。スープーちゃんも」 「瞬さん、こんにちはッス!」 「こんにちはぁ」 にこにこと笑いあう笑顔は春の日向のようだが、太公望は一人で昭和枯れススキのように枯れきっている。 「お疲れなんですね、太公望さん」 「……喧嘩なぞ、するもんではないな」 「夫婦と言っても別の人間なんですから、喧嘩くらいはすると思いますけどね。まあ、他人の敷地で暴れるのはどうかと思うんですけど……」 ぐったりと突っ伏した望の前に、瞬が桃の紅茶と焼き菓子をおいた。 「動物性の物は使ってませんから、安心して召し上がってください」 「すまん……」 望はうつ伏せたまま菓子に手を伸ばす。 一つかじってみて、昌を思う。 豊都北陰大帝としてあちらの冥府を管理せねばならない昌に変わって、望は代償としてこちらの冥界で働いている。 つまらない喧嘩のせいで離ればなれ。 あんなにいやだと泣いたのに、この現状はいったいなんなのだ。 「昌……」 今頃どうしているだろう。 一応毎日の帰宅は許されているけれど、それでも。 望はため息をついた。 そんな望を見ながら瞬はこの夫婦の絆を知るのだ。 「ただいまぁ」 「おう、お帰り。ご飯できてるよ」 望は何となく家中を見渡す。自分が希臘に出かけている間に昌は家事を済ませてしまっている。忙しいはずなのに、どうしてこんなに優しいんだろう。 そう思うとふいに涙がこぼれてきた。 「えっ、ちょっ、望!?」 当然ぽろぽろと泣き出した望に仰天し、昌は膝を突いて妻を宥める。 「どうした? 向こうでいじめられたか?」 望は首を横に振る。 「なんだ、おなか痛い? それとも頭痛い?」 望はこれも否定する。 「何で泣いてるんだよ」 「わからぬ……」 「望……」 「わからぬ……」 泣きじゃくる望を昌はゆっくりと促し、座らせた。 「望」 何度呼びかけても彼女は自分の手で顔を覆ったまま返事をしようともしない。 それならとことんつきあおう。 昌は望を膝の上に抱き上げると、彼女が泣きやむまでひたすら背中をさすり、髪をなで続けた。 「もう、許してあげればいいのに」 「なんのことだ?」 鏡台の前で寝支度を終えた瞬が、寝台の上でとぼける冥王に近づいた。 「太公望さんのことですよ。だいたいあなたの力を持ってすれば裁きの館くらい簡単に直せるのに」 「なんだ、そのことか」 冥王はおいでと瞬を手招く。 「確かに、裁きの館くらいは直せるし、ルネやラダマンティスが少々寝ておったところで冥界の運営に支障はない。余のちょっとした意趣返しなのだ」 「意趣返し? 仕返しってこと?」 「余は以前、豊都大帝に贅沢だと言われたことがある――そなたに愛されているのになぜ自覚せぬのかと」 「ハーデス……」 冥王は傍らに愛妻を置き、話を続けた。 「もともとあの黒衣の媛と大帝とは、結ばれるべき縁ではなかったという。それをいうなら余とそなたもそうではあったが……だが、こうして結ばれた。余を贅沢だと言ったどの口で、大帝は夫婦喧嘩などしたのであろうな」 「あ……」 「夫婦喧嘩など、夫婦でなければできぬ」 「そうですよね。でも」 「それなら、優しいそなたに免じて許すこととしよう。それでよいか?」 冥王ハーデスとは、本来は音楽を愛で、愛に涙する優しい神なのである。瞬は夫の優しい心遣いに笑顔で答えた。 「ありがとう、ハーデスっ」 「そなたに礼を言われることではないが……まあいいか」 寝支度が終わっているのならと、冥王は瞬の腰をそっと抱いて引き寄せた。 「あ、あの……」 「余の願いも聞いてくれ、瞬……」 ふっと音を立てて明かりが消える。聞こえてくるのは衣擦れの音だった。 それから数日後の、中国の冥界。 「大帝様、大変です! なにやら二人組の異国人がわけの分からないことをわめきながら乱入してきましたぁ!」 月に一度の現地出勤日にあわせたかのような乱入は、一縷の希望と言えるのだろうか。 豊都北陰大帝こと姫昌はその乱入者が誰なのかを確認すると念のため総員を待避させてから電話に手をかけた。 「――ああ、望? 俺だけど。ああ、うん。実はちょっと困ったことが起きてね。今すぐ来て≪黒の直方体≫を保護してほしいんだ。そう、故人情報が入った情報基盤箱。これが壊されると俺はこっちに缶詰になってしまう……ああ、頼むよ」 それだけを告げて電話を置く。 そばにいた獄卒が不安げに彼を見ていた。 「女房が来てくれるって。ここには結界もあるし、大丈夫だよ」 かんらと笑う大帝を見、獄卒たちは安堵のため息をもらす。 ややあって大帝の奥方がやって来、≪黒の直方体≫を異空間に保護してくれた。 「いつも昌が世話になっておるのう」 「いえいえ、お世話いただいているのはこちらです」 望は獄卒たちに焼きたての小麻花を配っている。 「たくさんあるからほれ、みんなで仲良く分けてお食べ」 「わーい、大帝の奥方様からお菓子もらったぞー」 獄卒たちは大喜びで口々にお礼を言いながらお菓子に群がっている。 「ははは。かわいい獄卒さんたちじゃのう」 「ここにいる子たちはね。奥に行けばもっとすごいけど。ところでこの小麻花、わざわざ作ってきたのか?」 「作っておったら連絡をもらったから持ってきたのじゃ。ちょうどおやつの時間だろうと思ってな」 「それはそれは、ご丁寧に」 昌は長い指で一つ摘む。 「ん、うまい」 「それはよかった。ところであちらのご夫妻はどうしたかのう」 「監視鏡があるよ」 昌が小さな釦をぴっと押すと監視鏡の一つの画面に乱入者が写った。それは先日偉そうに夫婦を語った冥王夫妻であった。 お互いに派手な装飾の鎧をまとい、技を繰り出している。 「わしなら、瞬の鎖をまず封じるな」 「あの子は鎖がない方が強いんじゃなかったっけ?」 「その力が解放される前に異空間に封じればよい。瞬自身には空間を破る力はないが、あの鎖には空間を越えて突破するという≪アリアドネの糸≫的な力があるからのう」 そうなると望がいかに空間使いであっても面倒な相手に違いない。 なるほどねえと大帝がうなる。 「ではそうしないところを見ると冥王殿は本気ではないと?」 「いや、あれはあれなりに本気じゃが、最大奥義の惑星直列には効果が出るのに時間がかかるし、瞬本人にダメージはいかんからな……あ、星雲嵐が出た」 「あーあ、これは終わったな」 どしゃっと顔面から地面に叩きつけられる冥王陛下。 とたん、瞬は般若の形相から一転、冥王を抱きしめて泣きじゃくる。 こんな彼に誰がした、と。 大帝の執務室から『アンタだ、アンタ!』の総ツッコミ。 しかし瞬には聞こえていなかった。 運命の交響曲が鳴り響くこの世界 手に手を取って笑顔で口遊む物語 さあ、今度はなにを歌おう |
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