俺は猫である。名前はまだ無い。
どこで生まれたかもとんと見当がつかない。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。俺はここで始めて人間というものを見た。
之が現在の主である。この男、教師と云う職に就いている癖に酷くだらしの無い性質で俺のことを思いつきの名で呼ぶ。尤もこの家には我々しか居ないので困ることは無く、夫で良しとしている次第だ。
近頃よく聞く名はなんでも何処かの侍の名らしいが俺は知らない。
大和魂を持った猫になれよと主は云うが、そもそもそんな事を一々言葉にして確認せねばならぬのは人間くらいのものだ。下らぬ道楽に耽り勝ちだからいけない。
我々猫と云うのは常日頃精一杯生きているのだ。侍がどんな物であるにせよ、我々が劣るとは思えぬ。
まあ夫れは良いとしても本当に我が主はだらけた男なのである。
糖尿予備軍の癖に甘いものを食べるのをやめない。そのようなものを食べ寝てばかりの彼は無論運動不足だが、割りに筋肉があるほうなので誰もとがめないのだ。しかし腿や下腹部が少し柔らかいことは、膝に乗って俺は知っている。
人間は皆このように怠惰なものかと思って居たのだがそうでもないらしい。此れは暫く人間を観察して気がついた。
何故か友人は多いようで、週に二、三度は誰かしら訪ねてくる。其の中でも最も頻繁なのが高杉と云う男だ。
此の男はいやに横風な喋り方をして、しかも其れが堂に入っているので誰も文句を云えぬ。何故かいつもすぱ/\と煙を吸って吐いてを繰り返しているが、俺が人間だったらそんなに好いのかと問質してやるところだ。主も彼の影響か偶に吸う。何だかんだで仲は良いらしい。
高杉はなんでも美学者とか云う人種だそうで、和歌やら都都逸やら、難しげな言葉を捏ね繰り回しては主人にぶつけ帰って行くのが常だ。
主人も国語教育の一端を担う男であるから、それなりに応戦してみせるのだが高杉に比べると面白いが品が無い。
そんな主の作品をそれでも高杉は認めているらしく、近頃は吹っ掛けてくることが減った。代わりに、美学者らしく美術の話をする。これは漫画くらいしか縁のない主では太刀打ちできぬ。
其れが余程悔しかったか、主人は今絵画に凝っている。漫画好きの癖に水彩画を描きたいようだ。そもそも心得が無いのなら大人しく静物でも描いていれば好いものを、どうしたことか俺を描こうとしているらしい。これは先ほどから寝転がる俺の後ろ姿に視線を浴びせているから分かる。
主人のためにも出来るだけ動かないで居てやりたいが、主人と違って俺は暇が苦手である。
「しかしお前、男前だよな」
筆を持つ手を休めて俺の鼻筋を撫でた。そんなだから作業が進まないのだ。作業が進まなければ俺は動けないのだ。そう云ってやりたいが哀しいかな、人類は我々の言語を解することが出来ぬ。
「其の目つきとかさア…やっぱり似てて、腹立たしいぜ」
そう云いながら俺の真黒な毛並みを撫でる手つきが優しい。人間とは妙なものだ。
しかしじっとしているのは性に合わぬ。とうとう耐え切れなくなって逃げ出せば背中に非難がましい声がかかった。
絵は諦めるがいいさ。最も、言葉は通じやしないが。
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