この新人の研修医と仕事を共にするのは何度目だろう。
目の前を行く天野の背中を見ながら考える。
そして、ぐす、ぐす、と時折鼻をすする音が聞こえる。
この娘の涙を見るのは一体何回目だろう。
規則正しいリズムは、今日の検案を思い返させる。
今日の患者の所見は打撲だった。
現場は10階建てのマンション。10階の階段付近にはご丁寧に患者の靴も置いてあった。
彼女がそれを見て「自殺」と判断したのは仕方がないことだろう。
月山は死因の特定が早くできたとみて、飛び上がって喜んだ。
そんな彼女の様子を見て、天野がなお喜んだのは仕方がないことだ。
死因を「自殺」だと断定したのも分からなくはない。
だけど私はぴしゃりと叱った。
「打撲」は「打撲」であって、どうしてそこから「自殺」へと飛躍するのかと。
この状況で「自殺」と断定する材料が、患者のどこに表れているのかと。
患者のことを見ず周りの状況を見るなんて、患者にとって失礼極まりないことだと。
天野が落ち込んだのは言うまでもない。
検死も終わりすっかり陽も暮れる時刻。
影もすっかり長くなって、私と天野の背丈が同じくらいに見える。
黒川だったら気を利かせてお茶にでも誘うかもしれないし、
月山だったらストレートに嫌味のひとつでも垂れるだろう。
(でも彼女にとってはそのあとでフォローも忘れないだろう。
「あんた成長しないわね。でも、次頑張ればいいじゃない?」という調子で。
素直な彼女だからこそ、その嫌味もフォローも心からの本音だと分かるから、
言われた方は前向きに傷つくことが出来るのだ。かさぶたを綺麗に作れる傷)
分かる。痛いほど分かる。自分の痛みのように分かる。
目の前の人が助けられるかもしれない、
自分の力で、手を差し伸べられるかもしれない。
まだ半人前かもしれないけれど、何が助けてあげられるのかもしれない。
そう思えてしまったら誰が動かずにいられようか。
どうして立ち止まっていられようか。
その気持ちを誰が頭ごなしに否定できようか。
「泣いてるの?」
「泣いてませんよ。泣いてなんか、いません」
前を行く彼女の顔は見えないけれど、言葉の節々に涙がにじんでる。
見なくたって分かる。誰だってそうだ、最初はそうだ。
そこにいるのは天野だけじゃない。
昔の私も黒川も、そしてきっと田所や月山すら、きっとその位置にいたことだろう。
壁にぶつかって、何度もぶつかって。何度も何度も血を流した。
真っ赤な涙を流しただろう。
「泣いたってどうにもなんないわよ」
「だから泣いてなんか」
そうやって振り返った彼女の顔は赤かった。
夕日が彼女を照らすせい。
「検案50体」
え? と一瞬こわばっていた彼女の顔がゆるむ。
「検案50体、田所に言われたでしょ?」
彼が新人に課す研修のはず。
「今何人の患者とあなたは向き合ったの?」
「今日で、」天野の目が泳ぐ。
「10人目です」
10人目。ああ、それは。
まだ、始まったばかりだ。
転んで傷を作って。彼女はまだ登り始めたばかりだ。
体中傷だらけだろう、転んで転んで、血だらけだろう。
それは痛いに決まってる。
「そう、それじゃあ――」
黒川は気を利かせて彼女を慰めるだろう。
月山は落とすだけ落として、でも結局励ますだろう。
だったら私は――
「まだまだ新人ね」
口角を少しだけ上げて、彼女に言葉を突き返す。
呆けていた彼女の顔が、みるみるうちに変わっていく。
「ちょっ……それってどういう意味ですかぁ?」
青ざめていた顔色に朱が入る。
眉毛が吊り上っていく。
でも私はそんな彼女を構うことなく歩を進める。
「杉先生!」と天野の声に怒りが混じる。
「それじゃあ今日みたいなミスをするのもまだまだ仕方がないわねえ」
「なっ……」
今度は怒りでモノも言えないといった風情か。
それでも私は口を止めない。
「何か?」
「確かに今日は、今日はミスしましたけど……」
後ろで立ち止まっていた天野の駆け足が聞こえた。
小さい身体が、私の横を通り過ぎる。
そして目の前に立ちはだかって、「でも次は絶対完璧にします!」と半ば叫ぶ調子で声を上げた。
顔にぎゅっとしわを寄せて。全身に力を込めて。
「どうかしら?」
「絶対完璧に、これでもかってくらい、杉先生が私なんてついていかなくてよかったって思うくらい、
ちゃんとやるんですから」
さっきまで落ち込んでいたのはどこにいったのか、彼女の顔があまりに生き生きしているものだから。
「まあ、期待しないでおくわ」
私は思わず笑ってしまった。
「楽しみにしててください!」
「絶対杉先生をぎゃふんと言わせてやるんだから」と隣で小さくつぶやく声が聞こえた。
(また独り言。それにしてもいまどきぎゃふんって小説でも聞かない)
小さな天野を一瞥し、顔をあげてもやっぱり笑みが取れそうも無い。
どうしてくれるんだろう、この元気あふれる新人は。
黒川は気を利かせて彼女を慰めるだろう。
月山は落とすだけ落として、でも結局励ますだろう。
だったら私は待っていよう。
彼女の壁として、血を流し、かさぶたを作り、また新しい血を流し――
彼女の気持ちが痛いほど分かるからこそ、
そうやって彼女が一人前になるのを待っていよう。
一人前になるのには、決して平坦な道が続いているだけではダメだから。
そんな私の想いを知ってか知らずか、
「杉先生、私、負けませんから」と力強く口にするのだった。
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いつも拍手ありがとうございます!
ひさしぶりにサイトを見て返していたら懐かしくて5年ぶりくらいにきらきらひかるを書いてみました。
(これを書いたのは2012年1月です笑)
もう文章書けない笑
大学生を経験した今だからこそ書けるものを、と考えたらこんな話になりました。
きっと杉先生も天野だった時代があると思うんだ。
天野だったからこそ、今の自分には無い天野の甘さを怒るわけで、
それでもなお甘さ(というか優しさ、かな)を持ち続けられたことに尊敬を感じていると思うんだ。
この次にもうひとつ新作きらひか2012バージョンがあります~。
今きらひかを書いたら社会学の知識とか使えてそれはそれで楽しいかなぁと思う。笑
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