**Forget me not ** あれだけ毎日顔を合わせていた人でさえ、離れてしまえば案外あっけなくその不在にも慣れてしまうのだなぁ、と檜佐木は思った。 思って、そんな自分を薄情だと思わない薄情さを嘆いた。 あの人は、今も忠誠を誓った彼らと共に、幸せに生きているのだろうか、と空を見上げる。 (何処に居るのか分からないのに、空を見上げる癖が直らない。) 今となっては、あの人がどのように笑い、どのような仕草で動いて、どんな声で話していたかでさえ朧気にしか思い出せない。 けれども何気ない日常の端々に在りし頃の残像をふと思い出しては、忘れてしまったもの、失われた色々を懐かしんでみたり。 過去に思いを馳せて初めて気づく。思えばこれまでに失ったものは自分が思った以上に多かった。 目の前で虚に殺された級友、訣別の言葉さえ残さなかった上司。 それらの大切(だと思っていた)な人たちは、檜佐木の意思も感傷さえも越えて、呆気なく居なくなった。今となっては懐かしい話。 「仕方のない話だよ。人は忘れていく生き物なんだから。」 そんな檜佐木の微かな物思いなど吹き飛ばすかのように、傍らの弓親は飄々と言った。 奇妙なことに、少し前までは一角と二人だけの特等席だったサボり場所、屋根の上、今は隣に檜佐木が居る。 本当に奇妙だ、と妙に感慨深く思って弓親も同じ蒼穹を見上げた。 「仕方がない話だよ。」 まるで自分に言い聞かせるようなその物言いだった。 時間はときに圧倒的な包容力を以て、容赦無く全てを持っていく。 だから、昔は変わっていくことがとても怖かった。変わっていくことによって失われていく色々が。 でも今は何も恐れることは無いんだ。時は思い出や大切な人を奪っていくけれど、同時にまた新しいものをもたらしてくれる。 (変わっていくということは、好転の可能性を得るということでもあるんだよ。) 「だから、何も怖がらなくていいんだよ。」 弓親は言った。 いつも檜佐木の前ではそう多くを語らないのに、今日の彼は珍しく雄弁だった。 その様子に檜佐木苦笑する。本人は気づいていないのかもしれないが、弓親は嘘を吐くときいつもそうなのだ。 それでもそれを指摘せずに、こうして黙っているのは、弓親が健気にも自分を励まそうとしているのだと(少なくとも彼は)思ったから。 「それに、あんなに苦しんでいた君がこうしてあの人を思い出せないと言うくらいなら、それはいいことなんだよ。」 「・・・・・。」 「忘れることで涙をなくせるならば、忘れてしまえばいいよ。 忘れるのは、案外簡単なことさ。ただ時がそばを横切っていくのをゆっくり待つだけ。」 そう言って、弓親は目を閉じる。弓親の幸福な勘違いに、檜佐木は苦笑したが、それを正すことはしなかった。 弓親が思っているほどには、檜佐木の心情はそう悲観的ではなく、ただ自分の中に生まれた、途方も無い空虚感に似た、それでいてひどくあっけらかんとした欠落の穴に戸惑いを隠せないだけだった。 忘れていくことに対して、安らかな、寛容な気持ちでいる自分に戸惑っている。 ただ、弓親のことでさえいつの日にか忘れてしまう日が来るのだろうか。 それが、今はただなんとなくもの悲しい、と檜佐木は思った。 思って、この感情さえいつか消えてしまうことを少しだけ恐ろしく思った。 「なぁ、いつかお前も俺の存在さえ忘れて、俺もお前のことなんて忘れちまうのかな。」 きっと傲慢にも「そんなことは無いよ」とか「ずっと一緒に居れば嫌でも忘れないよ」とかいった甘い空音を期待していたのだと思う。無意識のうちに。 だけれど、いつも嘘ばかり溢す弓親の口はこんな時に限って真実しか告げなかった。 「・・・そうだね。」 「だって未来のことは分からないんだもの」 そう無邪気に溢す唇さえ脳裏から消え去ってしまう未来なら、来なければいいのに、とひそかに思ったけれど、口に出せば困らせるだけなので、黙ったまま檜佐木はそれに口付けた。 せめてこの感触だけは忘れることができないようになればいいのに、と不毛な望みを持って。 終。 ありがとうございました!! これからも弓親愛でがんばります! |
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