☆ なつかしのシリーズ。壱とエビ。


カラオケボックスが好きだ。
 何かを考えて考えてどうしようもなく疲れ果てた時に、カラオケボックスは最高なのだ。
 とはいえ、ストレス発散のため大声で歌いたいとか、そういうことではない。
 壱が好きなのは、カラオケボックスで眠るという行為だった。
 趣味は、と聞かれて、カラオケボックスで昼寝すること、と言うと、誰もがからかわれたのだと思うらしい。今までその「冗談」を最初から本当だと思ってくれた人間は、少なくとも1人しかいない。少なくともなんて数でもないか、と壱は心の中でため息を吐く。
 誰に理解されないものでも、壱はやはりカラオケボックスで昼寝をするのが好きで好きでたまらなかった。
 そこは常に薄暗く、時間の流れを淀ませて。
 そこは淀んだ世界なのに、人々の入れ替わりはあまりにも激しい。
 そこは淀んだ世界なのに、来る人は騒がしく歌に興じる。
 空間に流れる時間と現れる人間の中にある時間のギャップが、なぜか壱の心を安心させた。
 穏やかなものと激しいものは一緒にあるから心地良い。
 そんな壱の心を解さない人々は、壱がただカラオケが好きなのだと思って彼をカラオケに誘う。壱は時間の許す限りフラフラとついていくが着くなり大抵眠ってしまうので、そこで人々はやっと彼の趣味を本当なのだと理解するのだ。
 今日も今日とて、やけにうるさいバックミュージックを耳にしながら、壱はゆっくりと目を瞑った。
 α波ってこれのことなのか、とα波の研究者が耳にすればあまりの見当違いに怒り狂いそうなことを静かに静かに思いながら。
「ぉーい、寝るなよなぁ、スナフキン」
 バックミュージックを切り裂くようにして、マイクの声が壱のあだ名を呼んだ。マイクにかかった執拗なエコーのせいで、誰の声なのか目を瞑った壱には判別出来ない。それもまたいいんだよな、とぼんやり悦に入りながら、壱だけに訪れる特殊なα波はその波を大きくしていた。
「スナフキンってば、なぁ」
 しつこく壱を呼ぶ声は、歌のメロディラインになっても途切れない。
「……寝る」
「なー俺様の美声を聴けっつの」
「お前の歌を聴くために俺はここに来たんじゃない」
「ほんっと、つれないなーお前って」
 諦めたようなため息をマイク越しに聞きながら、壱はα波に身を委ねていた。
 いつになく今日は考え込んだ。
 いくら考えても壱が一歩踏み出さない限り何も意味をなさない行為について考えていたから、疲れたのだ。思考回路も心も緊張の糸も。
 だからこそここでリラックスする必要があったし、何をどんなに悩もうとも一眠りすれば楽になる。
 そう思って、壱は身体を弛緩させた。やけにうるさい音楽とそれに負けまいとする人の声が耳に届けば、すぐにでもリラックスできる。
 例え眠りに入る前に最後に耳にした歌が、野太い男が歌う華奢な女性アイドルのヒットソングだったとしても。
「壱。寒くないか?」
 本当に眠りに入る直前に聞こえた落ち着いた低い声が、壱の記憶に帳を下ろしてくれる。


 村上壱はスナフキンのようだ、と最初に言ったのは誰なのか、今や誰も覚えていない。
 ただ、そのいかにも飄々と自分気ままに生きている風情が、彼をそう見せるらしい。人に特別優しくないのに、時折見せる気遣いや優しさ。ぼんやりとしていそうに見えて、親友には濃やかな友情を注いでいる辺り。
 全てを総合して、壱はスナフキンに似ている、と誰かが言えば「ああそういえば」と誰もが頷きたくなるらしい。実際、スナフキンという登場人物が出てくる物語を、じっくり読んだことのある人間はそう多くはないけれど。そイメージはたいてい共通している。
 当の本人は、「俺ってあんなに目つき悪いか?」と真剣に首を傾げるが、その手のタイプが好みの女にとって、スナフキンに似ているとは褒め言葉に近いことを壱は知らない。
 褒め言葉にしろ何にしろ、壱は何と呼ばれようと別に構わなかった。自分が誰に何と呼ばれるのかなど興味がない。
 なので、「スナフキン」と呼ばれて「何?」と答えることには随分慣れていた。
 自分気ままなのは事実なのだが、学校生活を自分気ままに営んでいるつもりはなかった。学校には真面目に出ている。
 「学費を払ってるから」とどうやらモトをとるために現れているらしいということを知っているのは、同じゼミの学生と特に親しい一部の友人だけではあるが。
 

 今日はゼミがある。
 業界で有名な教授は、学生がゼミに出ても出なくても出席をくれる。「大学生たるもの、自主性を重んじなくてはどうする」と、もっともらしいことを言っていたが、ただ自宅と大学が遠い彼が面倒臭がって来ないだけなのは周知の事実だった。
「どうせ、行っても休講だろ……」
 高校生までは休講なんて言葉使ったことなかったよなぁ、と休講掲示板を眺めながら壱は思った。
「壱」
 明日の二限も休講か。学会ってほんとかよ……とぼんやり思っている壱の肩を叩いたのは、同じゼミの海老沢だった。
 壱よりも頭一つ大きな背の海老沢は、にっこりと微笑む。
 その微笑があまりにキレイで、周囲から「ニセ笑顔の海老沢」と評価されているのを、海老沢が面白がっていることを壱は知っている。
 海老沢は悪い奴では決してないが、食えない奴なのだ。
「エビ」
「おはよう。今日はゼミあるのか?」
「行ってみないとわかんない」
「そう。じゃあ行くか」
「エビ、賭けしよう」
「いいよ、何」
「今日は休講か休講じゃないか」
「…………俺が先に賭けていいの?」
「駄目。じゃんけんな」
 最初はグー、じゃんけんポイ。
 いつもと同じ口調で、壱が掛け声をかける。海老沢は文句も言わずに付き合って、結局何故だか負けてしまうのがいつものパターンだった。
 壱がグーで海老沢がチョキ。
 今日も壱の勝利だった。
「俺、休講」
「ずるくないか、壱」
「うっせーよ。賭けの景品はいつもと同じな。負けたほうが勝ったほうの言うことを一つ聞く」
 海老沢は苦虫を噛み潰したような表情で、仕方なさそうに笑った。
 この笑顔はニセ笑顔じゃないな、と壱はどこか満足する。
 海老沢とはたった一年の付き合いだけれど、ニセ笑顔とそうじゃない笑顔を見分けることができる程度には仲がいい。


 結局、というか、やはり、というか。
 ゼミは休講だった。
 この勝負は8割方「休講」が勝ちなのは分かってたから八百長だと言い募る海老沢に、壱は男らしくないと反発しながらも海老沢の言い分を少しだけ聞いてしまった。
「じゃ、拒否権ありね」
 学食で薄い茶をすすりながら、海老沢が満足そうに笑う。
 大抵の言うことは聞くから、一回分だけ拒否権をちょうだい。
 海老沢はニセ笑顔を張り付かせて、壱にそう告げた。
 本当はその拒否権を認めることはすごくすごく嫌だったが、壱は仕方なく条件を呑んだ。海老沢の言うことはなぜかいつももっともらしく聞こえてしまうので。
「拒否権、一回だけだからな」
 壱は面白くなかった。
 今日の賭けに勝ったら、海老沢にどうしてもやってもらいたいことがあったのだ。なのに、拒否権を認めてしまったら、もしかしたら拒否されてしまうかもしれない。
 それは嫌だ。
 すごく嫌だ、と思う。
 けれど、それでもその要求は取り消したくなくて、壱は考え続けた。
 要求を変えるべきか変えざるべきか。
 学食の、壱と海老沢が座る場所に人が集まってきて、ああだこうだと色々話し始めてカラオケ行きが決まった時もずっと考えつづけていた。
 だから眠ろうと思ったのだ。
 壱を優しく包んでくれる、喧騒の中で。
 一眠りすれば、意識が少しは変わるだろう。なにがしかの決心がつくかもしれないし、もう開き直れるかもしれない。
 そう思って、訪れたα波に身を委ねた。
 なるようになれ、が壱の根底を流れる思想だということは壱も知っている。
 スナフキンってこんな投げやりな奴なのかな、と思いつつ、だったらそう呼ばれるのも悪くないと軽く口元に微笑を浮かべて眠ったのだ。
 

 ゆらゆらと身体を揺さぶられて起こされた時、小さなくしゃみが出た。
「寒くないか? って聞いただろ。バカ」
 ぱしぱしと瞬きをすると、海老沢が苦々しげに壱を覗き込んでいるのが見える。
「あーエビちゃん、スナフキン起きたの?」
「起きたみたい。今連れてくから先行ってて」
「オッケー」
 ぞろぞろと部屋を出て行く人間をぼんやりと見つめつつ、壱は覗き込む海老沢に腕を伸ばした。海老沢はわざとらしいため息を吐き出して、壱の腕をとる。
 ぐいっ、と引っ張ると、壱は上半身を勢い良く起こして海老沢の肩に額をぶつけた。
 海老沢の身体の一部に触れると、なぜかとても安心する。
 海老沢は壱にとってのカラオケボックスに似ている。
 人に見せている部分と、見せずにいる部分のギャップが激しいのだ。
 見せずにいる部分には何が隠されているのか、本当にきっと誰も知らない。ただ皆、彼が見た目ほど「いい人」や「キレイな人」ではないことを知っているだけで。
 海老沢は自分をさらすことがほとんどない。見せていない部分を見せて欲しいと思う人間は多いのに。
 もしも、壱に。
 壱にそれを見せてくれるのだったら、壱は海老沢の傍で今以上に安らぐことが出来ると確信している。
 だから、どうしても頼みたいことがあったのだ。
「なーエビ」
「ん?」
「賭け」
「決まった?」
「俺のこと、一回抱いて」
「ああ、いいよ」
 あまりにあっさりと答えが返ってきて、壱は目を瞠った。
 恐る恐る顔をあげると、満面の笑顔の海老沢が壱を見て微笑んでいる。
 キレイだ。あまりにキレイな笑顔だ。
 その「ニセ笑顔」を見てしまって、壱は何だかひどく不安になった。
「……エビ」
「どうした?」
「俺、しくじった?」
「さあ」
 今までに見たことがないほどの、極上のニセ笑顔の海老沢は。
 いい人ではない海老沢は。キレイな人ではない海老沢は。
 一体なにを考えているんだろう。
 そう思うと身体の芯がぞくりと震えた。
 海老沢は壱の望む安らぎをくれないのかもしれない。
 飄々とした壱の中のスナフキンの部分を壊してしまうかもしれない。
 けれどもう、やっぱやめる、とは言えなかった。
 海老沢の目が、壱にこれ以上の言葉を許していない。
「壱?」
 問い掛ける表情に張り付いているキレイな笑み。
 ぼんやりと見つめて、壱は「なんでもねー」と呟いた。
「壱」
「何」
「取り消しちゃ駄目だよ。それが俺の拒否権」
「…………取り消さねーよ」


  多分なるようになるのだから。





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