夕暮れの太陽の赤は、どこか懐かしい。
一人公園に佇み、西に沈む夕日を眺めながら、そんなことがふと胸に浮かんだ。
冬の夕暮れは早い。ちょうど学生の下校時間と重なる今の時期は、寒さは身に染みるものの、なんだか直帰する気にはなれないのだ。
学校でも家でもない、誰もいない場所で、柄にもなく感傷に浸ってみたりだとか。俺らしくもなくて笑ってしまうが、ものを考えるには最適の時間だと思う。
目当てにしてやって来たこの公園は、この辺りに住む人たちが使うメインストリートから外れた場所にあり、幼稚園児でも遊ばないことで有名な寂れた場所だった。
予想通り人影はなく、がらんとした砂地に塗装の剥げた滑り台とブランコが二つ、そしてジャングルジムがひっそりと影を伸ばしている。
そのジャングルジムの一番上にひょいと登ってみたのは当然出来心だ。今更遊具で遊ぶ趣味はないし、今の俺には確実に物足りないであろうこともわかっていた。
頂上の棒に腰掛け辺りを見渡しても、最早何の感動もない。この上に誰よりも早く登ることが誇らしかった頃の自分は、もうどこにも居なかった。
……いや。
俺は、俺の中にまだあの頃の感覚が一つ、はっきりと息づいていることを知っている。
両膝の上に肘をついて指を組み、顎をのせた。いつの間にか伸びた脚、大きくなった手のひらが、否応なく時間の流れを感じさせる。
瞼に夕焼けの赤い光を感じながら眼を閉じた。眼を閉じる時、眠りに就こうとする時、今でも時々思う。
次に眼を明けたら、まだ何も知らず、何も考えず、ただ毎日に何の意味も求めずに生きていた子どもの頃の自分に、戻っているのではないかと。
今の自分はあの頃の自分が見ている夢に過ぎなくて、いつか覚めて、またあの日の自分からやり直すことができるのではないかと。
『このまま明日が来なければいいのに』
眼を閉じて強くそう願ったことを、俺は今でもしっかり覚えている。
翌日に何があったのかはわからないが、とにかくその時の俺は明日になるのが嫌で、怖くて、不安で、眼を閉じて祈ったのだ。
明日が来ないようにと。
その時に居たのが自分の部屋だったとか、ベッドに入って天井が見えていただとか、そんな細かいシチュエーションははっきりと覚えている。
無知だった俺が、何を思ってそんなことを真剣に祈ったのかだけはわからないが。
それが、今の俺の最初の記憶だと思う。
だから、あの日眼を閉じた自分の夢が今なら、いつか本当の自分に戻る日が来るのではないかと、期待することがある。
今の俺がどんなことをしようと、いずれ全て消えてなかったことになるんじゃないかって、そう思って、実際好き勝手に生きてきた気もする。
周りに合わせるだとか、誰かや何かを大切にするだとか、そういうのは、本番を生きてる奴がすればいい、夢の中の予行練習の俺はとりあえずやりたいように生きてみるからと、割りきったこともしてきたし。
後悔も挫折も、喜びも悲しみも、全部夢物語の出来事で、本当に俺のものになるわけじゃないんじゃないかって、思っていた。
そんなわけないのに。
「涼太郎」
凛とした声が、公園に響く。声の主は、わかりきっている。
聞き慣れた声が、冷たい空気と一緒に身体中に染み渡る。
眼をあけ首をめぐらせて姿を探すと、公園の入り口から少し入ったところに彼女が立っていた。上から見下ろす俺に、夕日の赤に染まった彼女が顔をしかめる。
「降りなさい、涼太郎」
相変わらずの命令口調に肩をすくめて、それでも素直に従った。
俺がのろのろと下まで降りてくる間に、彼女もジャングルジムの前まで進んできた。
西に沈む夕日の前に、相対する二つの影が伸びる。
彼女は学校に置き去りにされたことを怒っているのか、不快感を隠そうともせず、眉間にしわを寄せて俺を睨んでいた。
俺は苦笑するしかない。悪いのは、何も言わずに先に帰ったのは俺だから。苦笑して、それから黙って両腕を広げた。
「なっ――!」
俺の意図を正確に読み取り、はっきりわかるくらいさっと頬を赤らめて狼狽える彼女が可愛くて、俺は一息に距離をつめて彼女を抱き締めた。
華奢な身体は俺の胸にすっぽりと収まる。
「ちょっと! ここ外――」
彼女の声も驚きもすべて飲み込む。
「……表からは見えねぇよ」
グーで胸板を押さえるように抵抗していた力も、次第に治まった。大人しくなったのをいいことに、俺は彼女に回した腕の力を強める。
苦しいほどに締め付けた。彼女の小さな頭が胸に沈む。表情の見えない彼女の額に、自分の額をこつりとあてた。
多分俺は、この瞬間を待っていた。
しばらくじっとしていたが、ふいに彼女ががつんと強く俺の胸を叩いた。
「―――ぃってぇ!」
俺は合わせていた額を離し、思わず腕の力を緩めた。
俺が放した身体は、しかし離れることはなく、彼女の伸ばした手が俺の制服の胸ぐらをぐしゃりと掴んだ。
「私に言うことがあるんじゃないの、涼太郎」
「……」
見上げる瞳は大きく潤んでいた。そんな、捨てられた子犬みたいな目で俺を見るなよ。
捨てたりなんて、できるわけない。
「置いて帰ってごめん」
「最低。もう二度としないで」
強烈な批判の言葉に苦笑を洩らすと、整った眉をきりりと吊り上げた。はいはい。
「しないよ。ちゃんと連絡する」
なんとなく、携帯電話の電源は切っていた。電源を入れれば、驚くほどたくさんの着信履歴が並んでいるのだろう。同じ番号からの。
「そうして」
そっけない一言を放った後、彼女は握っていた手の力を緩めて、俺の制服の胸元に頬を寄せた。
寂しがりな子どもをあやすように頭をなでてやると、さらにすり寄ってくるところがとんでもなく可愛い。
「……ちゃんと、言いなさい」
「先に帰りたいって? いつもは言うだろ、用があるときは」
「ちがう」
途切れた言葉の続きを待ちながらそれでも頭を撫で続けていると、その手を払うようにぱっと彼女が顔を上げた。
「一人で抱え込むほどきついなら、言いなさい、涼太郎」
そこにはもう捨てられた小動物的な弱さはなくて、飼い主の威厳というか……何というか。
俺のすべてを掌握しようとする強い支配欲。鬱陶しくもあるそれに、それでも彼女らしい傲慢さを感じて、俺は、……安心した。
しおらしいだけの彼女は好きじゃない。
欲しいものは力づくでも手に入れる。そんな情熱に生きている彼女だから俺は惹かれるわけで、安心して傍にいられるのだ。
きついから一人で抱え込む、という理屈は彼女には通用しないらしい。自分はいつも一人で悩んで、頑固で、なかなか口を割らないくせに。そんな彼女の一途すぎるが故の矛盾に、俺は笑った。
それくらい、俺のこと心配してくれてるんだろ?
予行練習の俺でも、こんなに大事にしてくれる人が、大事にしたいと思える人が見つかった。それが確認できただけでも、今日怒られた意味があった。
いや。
俺はこの愛情を確認したいがために、一人になって、彼女を不安がらせたかったのかもしれない。
「わかった。……ありがとう、奏」
軽く頭を叩いてやると、不満そうな顔をする。不機嫌そうな顔も、俺を思ってだと思うと可愛いものだ。
「帰ろう。送る」
さりげなく手をつないで歩き出すと、意外なことに、文句も言わずについてきた。いつもならここで一度振りほどかれるか、恥ずかしがるか、不満の一つでもこぼされるものだが。
ちらりと顔を伺うと、俺の顔を伺うように見上げる瞳とかちあった。
あわてて視線をそらされたが、頬がじんわり赤くなっている。
彼女にしては珍しく、俺の機嫌を伺っているのかと思うと可笑しくなった。らしくないと言えばそれまでだが、そのくらい、 彼女にとって俺の機嫌の良し悪しは懸案事項なのだろう。
気付かなかったふりをして黙って歩き出した。ここから彼女の家まではそう遠くない。
改めて彼女の可愛らしさとか、彼女に抱く愛しさや尊さをかみしめるには、短すぎるくらいの距離だった。