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 たった十日ぶりなのに、アスフェルはもう歩いていた。
 グレミオが屈んで両腕を広げると、頼りない足取りでその腕の中へ飛び込んでいく。きゃっきゃっと笑う明るい声にグレミオの穏やかな掛け声が相乗、屋敷全体の面積から見れば狭っ苦しいキッチンスペースは家庭的な雰囲気に満たされている。ことこと鳴動するシチュー鍋の蓋はかぼちゃの香りを振りまいていて、焼きたてのバゲットが半開きのオーブンに、新鮮なトマトがまな板の上に。
 耳の裏が痒い気持ちで、テッドはしばらくその光景に立ちすくんでいた。
「……あー……そいつ、もう、歩くんすねー」
 黙って出て行こうとした矢先、何げなく振り向いたグレミオの視線が背後のテッドに止まってしまった。仕方なく訥々と言葉を紡ぐ。グレミオは目玉を丸くしてから笑顔になる。
「来てたんですか、テッドくん」
「ん、一応ピンポン鳴らしたんだけどさ、勝手に上がっちまった」
「気付きませんでした。すみません」
 グレミオの腕からアスフェルの身動ぎする頭が見える。テッドを覗き見ようとしているのだろう。キキョウなら上手においでおいでとしてみせたかもしれないが、テッドは無性に気恥ずかしくて頬を人差し指で掻くのみに終わった。アスフェルの行動を受身で待つ。
 待っていると、やっとアスフェルが顔を出した。不思議そうな表情だ。
「坊っちゃん。テッドくんですよ」
 グレミオの声に従って仕方なく片手をひらひら翳す。
「よぉ、アスフェル」
 気恥ずかしいのは、子供に対する態度が取れない自分にだった。普段なら目線を子供と同じところまで下げて、べろべろばー、テドにいちゃんでちゅよー、なんて言うのも苦痛ではないが、目の前のアスフェルに対してだけはなぜか非常に難しいのだ。したくない、と言ってもいい。まずアスフェルがまだ一歳にも満たぬ子供だと思えなかったし、仮に子供だったとしても、子供の水準まで自分を低めて表面的な対応でお茶を濁すのは何か違うという気がしていた。そして同時に、何を理由づけたところで子供じみた態度を取ってやれない自分は周りから見れば子供嫌い、いや、アスフェル嫌いに見えてしまうのではないかと居たたまれなく感じている。
 ひらひらした手のひらが虚しい。アスフェルは微笑だにしない。
「坊っちゃん、グレミオはディナーを仕上げますね。その間坊っちゃんはテッドくんに遊んでもらっていてください」
「それ、俺の分もあったりする?」
「もちろん、たっぷり」
「おっし! じゃあ子守を頼まれっかな」
 グレミオがアスフェルから腕を離した。支えがなくなってぐらぐら揺れたアスフェルはすぐ側の食器棚に腕を突く。膝がぴんと伸びていて、肩幅に開いた両足の裏はべったり床へ着いていた。いつの間にやら立ち姿がサマになっている。
「来いよ。アスフェル」
 テッドは掲げていた手をアスフェルへ差し出した。腰を曲げたり背を屈めたりはしない、できない。そうやって子供に合わせることは甘やかしだ。彼自身が望んでいない、……と思う。
 アスフェルは眼前に差し出されているテッドの手のひらをちらりと認め、次にテッドを凝視した。食器棚から命綱の腕が乖離して、膝がぶるりと重みに震える。だが目はテッドを見据えたままだ。真剣な色を瞳に灯し、ふらつく足が一歩、二歩、と前に出る。
「アスフェ……」
「ちぇー」
 つんのめりながら六歩目にテッドの手へ飛び込んだ、アスフェルが妙な発声をした。言って、アスフェルがぱぁっと笑う。笑顔へ雄弁に表情を乗せる。
 この、顔。
 グレミオが包丁を使う音もシチューの煮沸音も消え、視野が狭まり窄まって、闇の中に点と光るアスフェルだけが切り取られた。時間はしばしの間止まった。テッドは呆然とアスフェルを見て、自分とアスフェルとを繋ぐ道がアスフェルのさらに後方へ伸びているのを知覚する。
 畏怖だ。アスフェルを子供と見なせないわけは、テッドがアスフェルに畏怖を覚えているからだ。計り知れないと思っている。そして彼には敵わないとも。
「ちぇー」
「……テ、……か……?」
 アスフェルの奇声はテッドのテ、と思いついた途端、テッドは思い切り口許を右手で塞いでいた。
 叩き付けた口周りの肌がひりひり痛む。だが密封しなければ耐えられない。――何に? ンなもん俺に聞くな。
「ちぇー、ちぇー」
「お前、アスフェル、何だそれその顔」
「ちぇ」
 力強い華やぎがキッチンの一角を占めた。ガキにできる顔じゃねぇよな、とテッドはどんどん火照る視界で再確認し、うそ寒いような鼻が痛むような、もぞもぞする感覚に身を曝された。
 だからこいつに子供じみた態度を取るのが嫌だったんだ。年齢や立場の上下関係をほんのちょっとでも感じたくない。なぜならこいつ、アスフェルと、テッドの関係は友情だからだ。しかも若干対等ではない。テッドがアスフェルに寄っかかり縋り付いて成り立っている。
「……グレミオさん。俺さぁ」
 口へ当てていた腕をだらりと下ろせば待ちかねたようにしがみ付かれ、成り行き上仕方なくアスフェルを抱き上げたテッドは、目を絞るように瞼へぎゅっと力を込めた。シチューに牛乳を加えるグレミオへ目を凝らしながら呼びかける。目が沁みる。乾いた角膜が潤っていく。アスフェルしか見えていなかった視界が徐々に元へ戻っていく。
 抱いたアスフェルが無遠慮にテッドの頬へ触れ、ちくりとした痛みになぜだか熱が込み上げた。爪の先が割れているのだ。まだ力を加減できずにいろいろなものを掴むのだろう。
「俺さー、もしこいつが女だったら、絶対彼女にしてたと思う」
「テオ様がお付き合いをお認めになるか微妙ですね」
「言うなって。ご挨拶するほどにゃならねぇし」
「しないんですか?」
「あー多分無理無理。その前にこいつに愛想尽かされる。一方的に別れましょっつわれて俺が泣いて縋ってさぁ……」
 その光景を想像するように、お願いアスフェルちゃんボクを置いていかないで、と言ってみた。だがまったくリアリティがなくて安心する。そんな未来は起こり得ないのだ。塵一つほどの可能性もない。
「では、坊っちゃんが男の子で良かったですね」
 グレミオは目を線にして笑った。ホントにな、とテッドも同じように笑い返す。
 しつつ、テッドは内心笑えない自分に気がついていた。冗談でなく心底マジだ。こいつが同性で、同じ時代、同じ場所に、生まれてくれて本当に良かった。じゃなきゃテッドは心を許せる友もいないまま寂しく人生を終えていた。背中を預けられる信頼を知らないままだった。
 テッドの髪を引っ張って遊ぶアスフェルの耳へ囁いてやる。
「お前がオトナになったらさ。エロ本、最初に貸してやっから」
「んー」
「だだだだだダメです! ダメですよ! テッドくん!!」
「こいつ今んっつったもん、欲しいって返事してんすよ」
 シチューの湯気が怒声に揺れて、パセリの香りが鼻をくすぐって、オーブンにこびり付いた焦げさえもこのひとときの彩りで。
 アスフェルがテッドの胸元を小さな指先でぎゅっと握る、服の皺が、アスフェルに集まる心の波紋だと思った。







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