1960年


 長原駅付近で見た鶏に違和感を感じなかったのがそもそも間違いだったような気がすると、池上は今更ながら考える。
線路沿いを呑気に歩く鶏を見て、まだこんな風景も残ってたのだと畑ばかりだった頃の街に思いを馳せたりしたものだ。
 そのため、目蒲から今回の話を聞いた時は思わず自分の耳を疑ってしまった。
「鶏ですか?」
「そう。洗足駅で飼ってる鶏が逃げ出してね。見付けたら教えてくれないかな」
万が一車や君に轢かれたら困るだろう、と目蒲は付けたす。
その逃げ出した鶏というのは池上が長原駅で見た鶏に間違いなかった。
「…すみません、多分その鶏を見かけました」
「どこで?」
目蒲の声のトーンが落ちる。
「長原駅付近です。旗の台駅に向かって歩いてました」
「…大井町にも伝えてあるから、見付ければ連絡があるはずだ」
部屋の電話を一瞥すると、目蒲は手持ち無沙気に懐に入れていた煙草の箱を取り出し1本火を点ける。
その動作一つ一つを池上は緊張した面持ちで見ていた。
「すみません」
「なぜ謝る。鶏を逃がしたのはこちらの落ち度だろう」
「ですが報告が遅れました」
「その鶏を見た時は君はまだ逃げたのを知らなかった、そうだね?」
「はい」
「なら君が謝る必要はない」
目蒲は灰皿で煙草を揉み消すと2本目に火を点ける。
「君が煙草を吸った所を見たことがないな」
「新奥沢が煙草の煙を嫌がりましたから」
その弟は20数年も前に廃線となっている。
池上の中に今でも自分が入り込めない場所がある事を目蒲は十分承知していた。


部屋の電話のベルが鳴り響く。その音を聴き、池上はホッと胸をなで下ろした。






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