死ぬ気で殴り飛ばされました。








『その境界は』

 『QUADRIFOGLIOより』









 この魔物はどうしてこんなにも海が好きなのだろうか。

 城に籠っているのは退屈だと言うプリーモはこの寒空の下、裸足で波打ち際を歩く。

 それの何が楽しいのかまったく理解出来ないのだが、人間の体温を持たない冷たい手に強引に引かれて歩かされるこちらは寒くて仕方が無い。

 履いていた靴は無理矢理脱がされるし、波打ち際を歩く相手に無理矢理引きずられれば冷たい海水につかりながら歩くしかない。

 冬の海辺を裸足で歩くなんて正気とも思えないが、寒さも冷たさも人間程には感じないこの吸血鬼にそんな事を言っても無駄なのはもうわかっている。

 この魔物の様に城に居るのが退屈だとは言わないが、あの城に居る時間が短ければ短いほど精神的には楽なのだ。

 滞在する日数が長引いているとはいえ上位クラスの吸血鬼が三体とそのしもべ数体が棲む建物でくつろげるような図太い神経は流石にしていない。しかも相手はこの魔物以外は欠片も友好的ではないのだ。

 もちろん聖職者相手に友好的になれる魔物などまず居ない事など説明するまでもない。

 これがあそこの頂点に立つモノだから本格的に戦わなくても済んでいるだけに過ぎない。

 そもそもどうしてここにいつまでも滞在しているのだろうか。

 自分はここへ来る事を承知したわけではないのに。

 そう思うと思わず溜め息がこぼれる。

「どうした」

「ーー…いつまでここに居るつもりだプリーモ」

 いや、そんな事を聞きたいわけではない。

 それよりも早くこんな寒い状態から解放されたくて仕方が無いのだが、私の手を握っているこの魔物は先程から私の手が寒さに震えている事に気付いているのだろうか。

 足などはもはや寒いとか冷たいとかを通り越して痛みに変わっており、これ以上海につかるのは堪え難い。

「お前は、感じていないようだから言うが、これ以上こうして歩くのは無理だ。寒過ぎる」

「……………そうか」

 月夜だからある程度は物を見る事が出来るものの、流石に自分へ振り返って微かに首を傾げた相手の表情までは見えない。

 ただ少しの沈黙の後でぽつりとこぼれた言葉がどこか残念そうな響きを含んでいる事だけはわかってしまって、その事実に何だか酷く落ち込んだ。

 この魔物が残念そうだから落ち込んだのではなく、表情や感情がほとんどわからなかった相手のそれが僅かなりともわかってしまう様になったという事実に落ち込んだ。

 それほどにこの相手と過ごしているのだと実感したからだ。

 とは言っても、いくら残念がろうともそれに絆されて、いつまでもこの凍える様な散歩につき合うつもりなどはない。

「散歩を続けたいのなら一人でしろ。私は…」

「いや、戻ろうーーーここを歩いたのは、単に何か…」

「…?」

 言い募ろうとした言葉を遮って紡がれた言葉が不自然に途切れて、思わず首を傾げた。

 ゆるりと首を振ったその仕草が妙に気になる。

 今が夜でなければ表情が見えて彼がどういう状態なのかを知る事が出来るのだが。と思考が更に深い所へ到達して自分の思考にギクリとした。

 思わず立ち止まると、ゆっくりとだが私の前を歩いていた魔物の足も止まる。

「どうした」

 先程と同じ問い。

 だが『どうした』と聞きたいのはこちらなのだと考えてまた落ち込む。

 どうしてこんなモノに対して気を使わなくてはならないのか。相手はこちらに気を使う事などまず無いというのに。

 そして、なぜ知りたいと思うのかと自分の感情を突き詰めかけて息が止まった。

 違う。

 違うのだ。

 知りたいのではない。

 知っていた。のだ。と何処かで囁く声がある。

 この吸血鬼は、確かに自分の『郷愁』に関係があるのだろう。

 どれだけ思い出そうとしても欠片も思い出せない『何か』に。

 私はーー…俺はそれを思い出したい。いや思い出さねばならない。

 それは間違いないのだろうか、本当にーーー。

「どうした、お前?」

「ーーーっ!?」

「何を…泣く?」

 突然目の前に現れた金色の双眸に驚いて息を詰まらせる。

 反射的に身を引いて後ろへとたたらを踏んでバランスを崩した俺の、冷えきった手を握ったままの吸血鬼に引き寄せられてその腕の中に抱き込まれた事で、冬の海に背中から倒れ込むという惨事は逃れたものの体を密着させるという事態は歓迎出来るものではない。

「何故泣くのだ『ディア』」

「なっ泣いてなど…っ」

 信じられないくらい優しい仕草で伸ばされた冷たい指が俺の目元を拭った事で、この魔物の言葉が真実だと知った。

 だが自分自身その理由はわからない。

 胸を抉る様な強い何か。

 日に日に募る何かがあって、それはこの吸血鬼と共にいる時間が長いほどに明確になった。

 それでもどうしてもわからないのだ。

 側に居るのは嫌なのに、離れたくないと感じるその理由が。

 どうしてこんな事を思う様になったのかと、どれほど自問しても答えは見つからない。

 どうして自分はいつまでも魔物の側に居るのだろうと、どうして倒さないのだろうと考えても、駄目なのだ。

 答えが無いのだ。

「…プリーモ、お前は一体なんなんだ…っ」

 倒れかけた俺を支える為に抱き締めているこの男の黒い外套の背を縋り付く様に握りしめ、叫ぶ様にそう吐き出した声は自分の耳にもわかるくらいに震えているし、混乱した思考は知らないはずの目の前の吸血鬼を知っているのだという。

 過去に会った事など無い。

 駄目だ。

 嫌だ。

 答えはいらない。

 そう。

 そうだ。

 きっとこの波の音がいけないのだ。

 この音が俺を揺さぶるのだと、それが逃避だと知っていて思考を逸らす。

「『ディア』、お前のその問いが本心ならば、俺も答えなければならないだろうが」

「っ」

 耳元にそっと吹き込まれる囁きに俺は息をのむ。

 この魔物は俺の自分でもよくわからない問い掛けの意味を正確に理解したと言う事なのかと、恐怖が背を這い上がった。

「お前の望むものを俺が提示出来るとは思わない。それでも…」

 ゆるりと手がまるで幼子をあやすみたいに俺の頭を撫でる。

 淡々と囁かれる声は、いつもと同じ。

 何の感情もない、抑揚の無い声音だった。

 それのおかげか私は急に己の思考が冷めた事に気付いた。

 力一杯握りしめていた外套から手を放し、自分よりも少々低い位置にある肩を押して体を離す。

「いや…どうかしていた。お前が何であるかなどわかりきっている」

 ゆっくりと首を振って、訳の分からない混乱をしていた己を嗤い、言葉を綴った。

「お前は私の敵だ。蒼の月と呼ばれる最強の吸血鬼。それ以外に何の説明も必要ない」

 冷たい海風が、先程不覚にも流した涙に濡れた頬を痛むくらいに冷やしている為、冷えきって震えている手のひらでぐっと拭う。

「お前が何であろうと、それで私が私以外の何かになるわけでもなし。お前がお前である事も……」

 言いながら、金色の髪の相手から離れる。

 何を言っているのだろうと思うと同時に体が震えた。

「寒いか」

「……別に」

 問いを否定しつつも止まらない震えは無論寒さからであるし、先程から寒いと訴えているのだからその否定は無意味だが、それとは異なる震えをも寒さからであると受け取ったらしく、おもむろに己の纏っている外套を脱いで私の肩にかけてきた金の髪の吸血鬼は静かに『戻るか』と呟いた。

 もちろんこの魔物にこちらの意思を汲むという事などない。

 単に城に帰る気になったのだろう。

 先程も戻ろうと言っていたし。

 しかし、突然見せられたこの優しさに私の思考は凍り付いた。

 こんな他人を気遣って寒さに震える相手に己の外套を貸す様なそんなモノでは無かったはずだ。

 だが、そう。

 この男はこういう男だった気がするのも否定しきれない。

 それに例えようもなく焦がれた自分が、存在した事も否定できない気がして動けなくなった。

 何なんだ。

 先程からこの魔物の言動に振り回されて、私は自分を見失いかけている気がする。

 生まれてこのかた私が私以外であった事など無いと言うのに、全く記憶にないこの吸血鬼の存在にとても揺らいでいる。

 このままこんな馴れ合いを続けているのは危険だ。

 そもそも不可抗力とはいえ自分の任地からこんなにも遠く離れた土地に拉致されて、いつまでも留まっている事自体が間違っている。

 腹が立つ事にこの魔物には敵わなくても、それ以外の、目の前に立つ城に巣食う吸血鬼共になら負けないだけの力はあるのだ。だからここに留まる必要などない。

 朝日が昇ると同時にここを出て行けばそれで解放されるのだ。

 この男に追いつかれないだけの距離を稼げばそれで良いだけの事で…。

「……何だ」

「お前を手放す気は無いと以前も言ったはずだぞ」

 突然触れそうな程の近距離で金色の双眸が見つめて来て私は絶句した。

 魔物ほど夜目など利かない状態でもこれだけ接近されれば、光を放つ様な黄金の瞳くらいは見える。見えるのだが、絶句したのはそれほどの距離に接近を簡単に許してしまうくらいに自分の思考に沈んでしまっていたからだが、これで何度目だろうか。今夜は本当にどうかしている。

 そしてこの魔物は人の思考を読むのだろうか?

 いや。

 冷静に在るつもりでいて、実のところわかりやすい程に私が動揺し過ぎなのだろう。

 馴染まない人間が何を考えるかなど、考えなくてもわかる事だ。

 しかし、本当に物好きな吸血鬼だ。

 本当に私を囲い続けるつもりなのか。

 何を目的に?

 ああ。何をしているんだ馬鹿馬鹿しい。

「お前…『ディア』なにゆえに、泣くのだ」

「や、めろ…プリーモ…触るな…」

 極度に近付いたままの距離から何故か逃れられないでいた俺の、再び濡れた目元にくちづけてきた吸血鬼の行動に辛うじて腕が動く。緩慢にしか動かない力の入らない腕で拒絶を示しても恐らく気にも止めないだろう。これは俺が全力で拒否しても聞き入れた事など無いのだから。

「ーー何を畏れる。お前は何に怯える。らしくもない」

「ーーー俺らしくないだとっ!?貴様にっ!貴様に何がわかると言うんだっ!貴様はいつも押し付けるばかりで何もっ……何も…っ」

「…し…い…お前ーー…」

「言うなっ…貴様の口からっ何も聞きたくなど、ないっ」

 何かを囁く金の髪の魔物の声は聞いた事も無い様な甘さを含んでいる気がして、俺は止まらない涙もそのままに拒絶の言葉を吐く。

 それだと言うのに、震えたままの俺の両手は縋る様にプリーモの腕を掴んで、その肩口に顔を埋める。

 聞きたくないと拒んだ俺の耳に、届く物は冬の荒れた海の音だけでいい。

 甘やかな囁きなど聞こえなくていい。

 波が、波の音がうるさくて魔物の声が聞こえない。その方がいい。

 いっそこの夜闇が視界をも完全に闇に塗りつぶしてくれれば良いものを。

 何もかもを消し去ってしまえれば、どれほどの幸福と苦痛を得られるのか、それは今のこの自分の立場がもたらす物とどれほど異なってくれるのだろうと、そうなってくれれば良いのにと、俺は存在しないとわかっている神に望まずにはいられなかった。

 叶わぬのならばいっそこの寒気に全て凍り付いてしまえばいいと思う。

 冬の海がもたらす郷愁も、この魔物がもたらす何かも俺には必要ない。

 今、俺が望むのは、一人で過ごす静寂と心の平穏だけだった。









プリーモが持つ、魔物らしからぬ何かなど一片たりとも知りたくなど無かった。






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