「Kiss you」
本日最後の書類にサインをし終えて、こわばった手からペンを引き剥がした。 ふぅと溜め息を吐き目頭を軽く揉みほぐす。 椅子の背凭れに寄り掛かると、超過勤務を抗議する様にギシリと鳴った。 「私もトシですねぇ」 長時間同じ姿勢を取り続けていた所為で、体中の関節が油の切れた音機関の様に錆び付いた音を立てる。 首を軽く回しながら肩を揉んでいると、隠し通路の扉がバタンと開いて、金色が頭を覗かせた。 「おや、隠し通路からとは珍しい」 「ちょっと相談したい事があってさ」 よいしょとかけ声を掛けて通路から体を引き抜くと、未だ若い皇帝は少し疲れた様な笑みを浮かべた。 「私でお役に立てれば宜しいのですが」 「うん」 頷くと彼はソファに腰を下ろして、はあと溜め息を吐いた。 「少し待っていてください。お茶を淹れてきます」 立ち上がり掛けて、ふと思い留まった。 「貴方、お腹は空いていませんか?」 「いや・・・。ううん、ちょっと空いたかも」 「では、何か軽く摘まむものでも作ってきましょう」 ゆっくりと椅子から立ち上がる。 「有り難う、ジェイド」 「どういたしまして」 思い詰めた様な彼の顔をチラリと横目で捉えて、簡易キッチンへと足を向けた。 「あれからもう、2年か―」 そう、あれから ピオニー・ウパラ・マルクト九世が病で急逝してから、もう2年も経ってしまった。 当時、次期皇帝候補たる皇子は成人の儀を終えて未だ やっと帝王学を学び始めたばかりの彼を、時期尚早ではないかと懸念する者もいたし、もう少し皇子が成長するまで、 暫定政権を立ててはどうかと言う折衷案も出た。 しかし、ここで他の者を選ぶとなれば、再度熾烈な継承者争いが始まるのは眼に見えていた。 しかも、それが暫定で終わらないリスクをも抱える事になる。 内紛を避ける為にも後顧の憂いを絶つ為にも、皇子が帝位を継ぐのが最良の道ではあったのだ。 しかし、いかに皇帝崩御が急な事だったとは言え、迂闊にもこの私が、皇子を即位させる為の準備や根回しを何もしていなかった。 智謀・策略は私の得意分野の筈だったと言うのに。 (本当に、私らしくも無い・・・) けれど― 殺しても死なない様な彼が、たかが病ごときで逝ってしまうとは思っていなかった。 彼がこんなにも呆気なく逝ってしまうとは、思ってもみかった。 人の命の脆さを、誰よりも知っていたのは、自分であった筈なのに。 暖かな腕の中で微睡む様な日々が、このまま何時までも続く様な夢を見ていた。 夢は何時か覚めるのだと言う事を忘れていた。 今更悔やんでも仕方のない事だが。 「俺はこの法整備を先に整えるべきだと言ったんだけど、議会が納得しないんだ」 片手にサンドウィッチを掴んだまま、彼が食い入る様に自分を見詰める。 「でも、俺は・・・!!」 「手がお留守になっていますよ。行儀が悪いから、先に食べてしまいなさい」 「え?あ、うん」 虚を突かれた彼が一瞬キョトンとしたが、直ぐに我に返るとパクリとサンドウィッチにかぶり付いた。 「旨い。ジェイドの作ったサンドウィッチを食べるのは久し振りだ」 「そうですか?そうかもしれませんね」 お互い最近忙しかったですからね、と付け加えると、彼は無言で頷いた。 パクパクと旨そうにサンドウィッチを頬張る彼に、今は亡き姿が重なる。 懐かしさと切なさが混じりあって、胸がきしりと音を立てた。 「ジェイド」 紅茶に伸ばし掛けた手が止まると、彼がポツリと呟いた。 「こんな時、父さんだったらどうしたのかな」 ティーカップを見詰めたまま、彼の顔がくしゃりと歪む 「もし、俺が・・・」 「陛下」 私が飲み掛けの紅茶をカチリとソーサーに戻すと、彼の体がビクリと震えた。 「貴方は、何故議会が貴方に反対するのか、判っていますか?」 「それは・・・」 彼がその先を口籠る。 ―俺が父さんの本当の子供じゃないから― 固く引き結ばれた口から、本音が零れ落ちるのが見える。 怒鳴り付けたいのを堪えて、努めて平坦な口調で続けた。 「貴方は議会の意見を聞きましたか?彼等の意思を正しく理解していると言えますか?」 私から顔を背ける様にして俯いた彼が、黙ったまま首を横に振る。 「自分の意見を振り翳すだけでは、相手も貴方の話を聞きはしないでしょう。貴方は先ず、相手の話を聞くべきです」 「でも、俺は―」 「自分こそが正しいと思っている。けれど、相手もそう思っているのでは?」 「そ、れは。そうかもしれないけど・・・」 「ならば、相手の意見を受け入る度量がなければ、相互理解は難しいでしょうね」 「俺に折れろ、ってこと?」 「俺に、出来るかな?」 情けなさそうに、彼が私を見る。 「出来なければ、賢帝とは言えませんね」 「俺は、父さんみたいにはなれない・・・」 力なく首を振る彼に、「とんでもない」と、眉を吊り上げた。 「誰が先帝の様になれ、と言いましたか?あの方は、私から言わせて貰えば、賢帝とは程遠い皇帝でした。仕事を放り出しては、城を抜け出してふらふら歩き回るし、しょっちゅう此処へ来ては、私の仕事の邪魔するし。頑固だし臍曲がりだし―」 「え?え・・・?」 驚いて眼を瞠る彼に、にこりと笑ってやる。 「だから貴方は、あの方の様になってはいけませんよ。貴方はもっと賢い筈です。貴方には未だ力が無い。それ故、歯がゆい思いもするでしょうが、それは致し方の無い事です。けれど貴方の回りには、そんな時貴方の力になる者がいる筈 です。判りますか?」 「俺に?」 暫く視線を泳がせてから、彼がまたティーカップに視線を落とす。 恐らく彼の頭の中は、様々な思考がぐるぐると回っているのだろう。 熟慮するのは良い事だが、それよりも今は行動に移してしまった方が良い。 「さあ、顔を上げて前を見なさい。下を向いたままの皇帝になど、誰も付いて来ませんよ」 「・・・うん」 漸く顔を上げた彼は、少し腫れぼったい眼をしていた。 そして、飲み掛けの紅茶をそのままに、ソファから立ち上げる。 力無く肩を落として部屋から出ようとする彼に 「知っていますか?」 と、声を掛けた。 「先帝が崩御して新たに皇帝を決める際、貴方の即位を反対する者は、誰もいなかったのですよ。あの議会でさえもね」 「え?」 彼が若過ぎると危ぶんだ者はいたが、彼を皇帝となる事に異論を唱えた者はいなかった。 結果的には、彼の未熟な部分は皆で補い、支えて行くと言う方向で意見が一致した。 結局私たちは皆、ピオニーの選んだ跡継ぎを、疑ってはいなかったのだ。 驚いて振り返る彼に、もう一度にこりと笑ってやる。 「しっかりやりなさい。My sun」 ピオニー・ウパラ・マルクトは、マルクトの民から愛された。 そしてこの若き皇帝も、マルクトの民から愛されている。 血の繋がりを求める事に、何の意味があるだろう。 彼は正しくピオニーの跡継ぎであり、私たちが育てた子供であった。 「うん。うん!」 たた、と駆け寄って来た彼が、ぎゅっと私に抱き付く。 「有り難う、ジェイド・・・父さん」 「今度此処へ来るときは、ドアから入って来なさい。あのように行儀の悪いまねをするのは、ピオニーだけで十分です」 「うん」 背中に回した手で、彼を軽くポンポンと叩くと、彼は少し照れ臭そうに笑った。 (後で議会に顔を出さないと。いや、ガイか参謀に話を聞く方が先かー) 暫く考えこんで、はっと気付く。 「私も甘くなったものですねぇ」 これでは、ルークに甘かったガイを嗤う事など出来ない。 (我ながら情けない) やれやれと溜息を吐いて肩を竦めた。 (ジェイド、あいつを頼んだ) 「ピオニー」 前から、ピオニーが逝く時は、自分も共に逝こうと思っていた。 だから、ピオニーの病状が危険だと判った時も、離れるのはほんの僅かの間だと思えば、不思議と冷静でいられた。 けれどー 「お前に、ずっと俺の側にいろって言ったけど、あれちょっと変更な。お前は俺の代わりに、あいつの行く末を見届けろ。面倒臭がらずに、ちゃんと最後まで面倒見るんだぞ。俺の所に来るのは、それからで良い。なるべくゆっくり、来いよ」 一瞬頭が真っ白になって、それからは何も考えられなかった。 いや、考えるヒマが無かったと言う方が正しいか。 ピオニーの葬儀、新帝の即位、新体制の樹立、挨拶回りを兼ねた諸国への表敬訪問と慌ただしく時は流れ、気付けばあっと言う間に2年が経ってしまった。 初めは回りの意見に流されるだけの皇帝だったが、最近はちゃんと自分の意見を通そうとする気概が出てきたらしい。 まだまだ尻に卵の殻を付けた雛だと思っていたが、案外親鳥の羽根の下から飛び出す日も近いのかもしれない。 (まあ、羽根の下から抜け出しても、雛には代わりありませんがね) 彼が一人前の若鳥になるまでは、未だ相当の年月が必要だろう。 そう思っているのは、親鳥だけかもしれないが・・・ 「あの子が結婚して子供が出来て、その子供が成人したら、もうあの子も一人前と考えて良いですよね。 そうしたら、迎えに来てくれますか?ピオニー」 誰にともなく呟くと、ポトリと机に雫が落ちた。 (涙?) ピオニーが逝った時も、最期の別れをした時でさえ、私の両の眼は乾いたままだったのに、何故今になって涙が溢れて止まらないのだろう。 まるで、今まで凍り付いていた感情が、一気に溶けて流れ出したかのように。 あの時、私の中で止まってしまった時間が、今漸く流れ始めたかのように。 (ピオニー。私は未だ、貴方に逢えない) 溢れ落ちる涙をそのままに眼を閉じると、瞼の裏に金の光が満ちた。 「君と視る光」より
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