『君が覚えていてくれるなら』



 花瓶の中のしおれた花に、八戒は小さく息を吐いた。
「……もう……駄目ですね……」
 出来る限りのことはした。それでも花が弱って行き、しおれて行くのは止められなかった。
「八戒?」
 後ろからかけられた声に振り向けば、同居人の悟浄がいる。
「どうした……ああ、とうとうその花、駄目か」
「ええ」
「このところ、暑い日が続いてたしな」
 しおれて首を落とす花を、手のひらですくって悟浄は言う。
「綺麗だったのにな」
「ええ……悲しいですね」
 切り花はあまり好きではない。どうしてもこうして最後には、しおれて捨てることになるから。
 なのにどうしてこの花を、手に入れることになったのか。それはこれが売り物で、処分される寸前のものだったから。街で見かけて思わず声をかけ、譲ってもらったものなのだ。まだ花の盛りは過ぎてはおらず、捨てられるのはあまりに哀れで、家に持って帰ったのだが。
 ――結局は、しおれて捨てられることになるんですね……。
 ならばいっそ綺麗なまま、捨てられた方がこの花も、幸せだったかもしれない。
 だがそこで悟浄は不思議そうに言った。
「悲しい? 何でだ?」
「悟浄?」
 八戒は悟浄を見つめてしまう。花がしおれてしまうことが、悲しいとこの人は思わないのだろうか。
「この花は、幸せだったんじゃねぇの?」
「……どういう……ことですか?」
「捨てられる所をお前に拾われて、毎日大切に世話をされて、幸せだったんじゃねぇの?」
「………………」
 そうだろうかと八戒は、首を垂れる花を見た。しおれる姿はどうしても、悲しいとしか思えなくて。
「でも……結局この花は、捨てられてしまうんですよ?」
「そんなの、当然じゃねぇのよ。何にだって終わりは来る。この花だけじゃねぇ。俺にも、お前にも」
 悟浄の言っていることは正しい。生命あるもの最後には、必ず終わりを迎えると。それは避けられぬ理だ。
「でもよ、俺達はこの花が綺麗だった事を覚えてる。俺達と一緒にいたことを覚えてる。俺だったら、それだけで充分だと思うけどな」
「悟浄……」
「誰かの心に残る事が出来れば、それだけでいいさ」
 ぼそりと呟いた悟浄の顔に、感情はほとんど感じられない。感じられるのは諦めに似た、凪いだ海のような静けさだけ。
 ――……悟浄……貴方は……。
 こうして隣に立っていても、何故かこの人は酷く遠い。そう思った時八戒は、軽い恐怖に襲われた。いつか……悟浄が自分を捨てて、どこかへ行ってしまうような。
 思わず手を伸ばし腕を掴めば、悟浄は不思議そうな顔をする。
「どした? 八戒」
「……僕は……覚えていてくれなくていいです」
「八戒?」
「覚えていてくれなくていいですから……捨てないでください……」
 恐怖が本音をこぼして行く。八戒は悟浄の腕を掴んで、俯いたまま呟いた。覚えていてなどくれなくていい。その代わり傍にいさせてほしい。自分を捨てて行かないでほしい。
 と、悟浄がポンポンと、掴む八戒の手を叩いた。
「俺は、捨てねぇよ」
「悟浄……」
「でも、お前は、捨てていいから」
「悟浄?」
 いったい何を言っているのだ? 捨てていい? いったい何を?
 ――まさか……。
 自分の事を言っているのか? 八戒が悟浄を捨ててもいいと?
 ――そんなことあるわけがないじゃありませんか!
「悟浄!」
 八戒は掴む悟浄の腕を、引き寄せ身体を抱き締めた。
「そんなこと、絶対にしません」
 自分が悟浄を捨てるなど、ありえないと言い切れる。たとえ何が起こっても。
「……そっか……」
 悟浄が小さく呟いた。それから八戒の肩口に、自分の額を押しつける。
「……そっか……」
 悲しくなるほど静かな声で、悟浄はもう一度繰り返す。八戒は悟浄をきつく抱き締めた。どうしてこんなに近くにいて、こうしてしっかり抱き締めているのに、この人は遠く感じるのだろう。
「……悟浄……」
 ふと、目を上げれば壁にかけられた、鏡に自分たちの姿が写る。瞬間八戒はぞくりとした。何故なら……。
 ――悟浄……まるで貴方は……。
 自分の肩にもたれかかり、首を落とす悟浄の姿は、しおれた花瓶の花のようだった……。



君が覚えていてくれるなら 了



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