「シェーバー」(雪燐と京都組)



「う~、眠ィ…」

 朝から蝉の鳴き声がうるさい。
 燐は大あくびしながら、階段を下りてきた。
 無限の体力を持つ燐だが、寝起きは悪い。合宿でもいつもラスト近くである。
 案の定、洗面所は男共で塞がっていた。
 どいてどいて~と歯ブラシを脇から突っ込む。

「何やお前は。いっつも遅いなぁ。もっとしゃきっとせぇや。順番も守れ」

 生真面目な勝呂は嫌な顔をする。

「しょうがねぇだろ。雪男の奴がよぉぉ」

 燐はぼやいた。

「この宿題終えないと、明日からアイス買っちゃダメとか言うからよぉぉ。う~、眠ィ」
「宿題って、あの薬学んか?
 あんなん、チャチャッと十分で終るわ。眠る時間削る程ないやんか」
「俺は解けなかったら罰ゲームさせられんの」
「そりゃ、ペナルティも当然や。お前が日頃あんまサボるからやろ?
 このまま行ったら、お前確実に夏休み全補習やもんなぁ」
「うう、雪男からもそう言われてる…」

 燐は歯を磨きながら呻いた。
 今まで友達がいなかったから、夏休みも日常と代わり映えする訳ではない。
 それでも、休みは休みだ。漫画読んでクロと昼寝しても、雪男もそこまで文句は言わないだろう。

(いや、ちゃんと聖騎士は目指すけどな!)

 決意は固いのだ。ただ、戦士にも休息は必要だと思う。

『それはちゃんと戦ったものだけが言える特権だよ、兄さん。
 実績を上げてもいないのに偉そうに言わない。
 兄さんが補習って事は、教師の僕も夏休みがないって事なんだけど』
『む~、それは深刻だな』
『だから、模試まで特訓しようよ。
 といっても、兄さんに普通の詰め込みをしても無駄だから、罰ゲームにしない?
 哀しい夏休みにしない為に頑張ろう』

 燐は溜息をつく。あんな提案呑まねばよかった。

(雪男の笑顔の提案にゃ裏があるって何で学習しないんだ、俺)
 
 問題が解けなければ、立ったまま暗記するまで雪男に乳首を弄られる。
 しゃぶられながらでも、三回繰り返して言えるようになるまで続く。
 足がガクガクするのに座る事も縋る事も許してもらえない。
 蕾をトランクスの脇から指で突かれながら、定理を暗唱させられる事もある。
 指を挿入られたら最悪だ。
 個人授業が終る頃はもう体は蕩けて、ベッドに縺れ込まねば眠れない程火照ってしまっている。
 ベッドまでお姫様抱っこで運ばれるのは非常に恥ずかしいのだが、既に足が萎えてしまってるから仕方がない。
 
 眠いのはそのせいだ。
 自分の学力不足と暗記能力の低さを呪ってもどうしようもない。

『だって、難しい文章読んでたら、いつも兄さん、寝ちゃうだろ?
 この罰ゲームは理にかなってると思うけどな』

 雪男の笑顔は悪魔よりずっと悪魔的だ。

(ううう…夏休みまでに何とかしねぇと、雪男の奴、どんな罰ゲームを思いつくやら)

 補習より、そっちの方が気が重い。

「なぁ、勉強を早く覚えるコツってねぇのか?」

 燐は歯を磨きながら、勝呂に尋ねた。

「んなもんはない。毎日の積み重ねや」

 努力家の勝呂はにべもない。

「えー、解ってっけど、そこを何とか」
「くどい。まずお前の場合、授業中起きてられる事からや」
「わ、解ってらぁ。でも、子守唄に聞こえねぇか、あの授業?
 専門用語ダラダラ並べてばっかのとかさ」
「ププッ!」

 志摩が思わず吹き出した。
 詠唱騎士を目指しているが、勝呂達ほど秀才型でない彼には、燐の言葉が頷けるのだろう。
 祓魔師としては優秀でも、教えるのが苦手な者は確かにいる。

「こら、志摩。こいつに同調すんな」

 勝呂が苦い顔をする。

「こら、すんまへん。
 でも、坊。奥村くんがやる気になるのは坊にとっても良い事ですやろ」
「何でじゃあ?」
「いや、だってタイプが似た者同士、いい刺激にならはるかなって」
「なるか!一緒にすんな。今から頑張ってもどうせ付け焼刃だ」
「んな事言ってぇ。
 体力とか実戦じゃ奥村くんもエエもん持ってはるのは坊も解りますやろ?」
「むぅ…」

 勝呂は黙った。
 燐が非凡な、だが得体の知れない力を持っているのは勝呂も認めている。
 確かにこのメンバーの中でいいライバルになるとすれば燐だ。
 しかし、圧倒的な学力差は気に食わない。

「実戦にだけ強けりゃいいってもんじゃねぇ。俺は認めん」

 勝呂はきっぱりと言った。

「だから、夏の模試で八十点以上取ったら認めてやるわ」
「ぬぅぅ、六十点…せめて五十点」
「だぁーっ!せっかく俺が折れとんのに値切るな、だぁほがっ!」

 勝呂は唾を飛ばして燐を怒鳴りつける。

「ま、ま。こないだまで二点取ってる奥村くんにそんな過酷な。
 死ねと言ってるも同然やないですか」
「そうですよ。二点から八十点なんて滅茶苦茶です。
 かわいそうだと思わないんですか?奥村くんに憐れみを」

 志摩と子猫丸が勝呂をなだめる。

「あのよ、さりげなく俺、ボロボロに言われてんだけど。
 俺もやる時ぁ、やるぜ?」

 燐はポンと胸を叩いた。

「じゃかぁしいわっ!その自信はいつも何処から来るんや!
 まぁ、お前にハンデがあるのは認める。
 だから、俺が授業で使こうとったノートと参考書貸したるわ。
 俺が要点や補足を書き足しとるから、お前みたいなサルでも解る筈や。
 これで出来んかったら、もう知らへん」
「勝呂…」

 燐は熱い感動を覚えて、思わず勝呂を見つめた。

「お前…凄っいいい奴じゃん!」
「ホント、坊は面倒見がエエですから」
「うっ、うるさいわっ!」

 勝呂は顔を紅くしたまま、ポーチから髭剃りを取り出し、髭を整え始める。

「照れてはるわ。もうツンデレなんやから。かわいいやろ、うちの坊」

 志摩は我が事のように喜びながら、髭剃りを始める。
 燐は呆気に取られて志摩を見つめた。

「ええ? あんたももう髭剃ってんの?」
「は?もう十五や。当たり前やろ」
「ああ、奥村くんはまだなんですかぁ?」
「うっ…わ、悪いかっ!俺は晩生(おくて)なんだよっ!」

 燐は拗ねる。

「雪男だってまだだしっ!」
「え~?こないだ、先生剃ってるの見ましたよ?」

 志摩は不思議そうな顔をする。

「えええっ!? バカな…っ、あいつが?」
「はぁ、朝練の時。先生、朝早いですから」
「うっ…知らなかった。あいつもかよ…」

 燐は愕然となった。
 雪男は体格がいいから不思議な話ではない。
 しかし、雪男の事を知らない事が多いとはいえ、二次成長でも負けているとは。

「まぁ、髭剃りなんて面倒なだけですから。
 そんな焦らなくてもいいんじゃないですか?」

 落ち込んだ燐に子猫丸が必死で助け舟を出す。

「そうだよなっ!身長だっていつかあいつを追い抜いてやる。
 まだ剃らない同士、強く生きようぜ、子猫さん!」
「いやぁ、僕も先日からちょこっと剃ってるんですが」

 子猫丸にエヘヘと笑われ、燐はドーンと落ち込んだ。

「おっ…俺だけか…っ!」
「フフ、お子様が」

 勝呂は自慢げに自分の髭を引っ張って、燐を挑発する。

「うっ、うるせー!俺ももう少し経ちゃボーボーにならぁ!そん時ぁ、吠え面かくな!」
「フン!どうせ、まだ下の毛も生えてへんのやろ。ツルツルなんやろ?」
「ち、違わい!ちゃんと生えてらぁ!くそっ、証拠を見せてやろーかっ!」

 マジでズボンを下ろし、パンツに手をかけた燐に志摩達は仰天した。

「ブレーク!奥村くん、落ち着いて!坊もタンマタンマ」
「こんな所でパンツ脱いだらアカンですって!」

 その瞬間、パリーン…と洗面所のガラスが砕け散った。
 恐る恐る全員が階段の方を見上げると、雪男が満面の笑みを浮かべて、銃口を向けている。

「朝から騒がしいと思ったら。
 何故、奥村くんがみんなの前でパンツを脱ぐ事態になったのか説明して欲しいですね。
 女子がこの洗面所を使った後だからいいようなものの、猥褻物陳列罪で訴えてもいいレベルだ」

 全員が雪男の鬼気迫るオーラと笑顔に蹴落とされて動転した。

「セ、センセ…これは…その、男同士の軽いジャブで…す」
「そ、そや。決して淫らで破廉恥な事は何も…」
「そ、そうだ。雪男…これは男のプライドの問題で…」

 光る眼鏡の下の瞳が全く笑ってないのでは、言い訳も尻すぼみに小さくなる。
 雪男は冷ややかに裁定を下した。

「連帯責任。午前中一杯、また囀石を抱いて反省して下さい」
「そっ、そんな殺生な!」
「せ、せめて反省文で!」

 阿鼻叫喚が巻き起こる中、雪男はゆっくりと階段を下り、燐の傍に立った。

「特に奥村くんには後でじっくり事情聴取させてもらいます。よろしいですね」
「よろしいですって…あのな、雪男。こりゃよぉ」

 雪男は燐を一瞥し、スッと耳元に顔を近づけた。

「僕以外の人に見せようとするなんて、気でも違ったの?」

 恐ろしい程、低温の囁きが鼓膜を貫く。燐は震え上がった。

「ああ、今日も暑くなりそうですね」

 雪男は何事もなかったように空を仰ぐと、スタスタと行ってしまった。
 その背を見送って、全員がようやく重い息を吐き出す。

「セ、センセ…。恐いお人やなぁ。知らんかったわ」
「な、何も撃つ事ぁねぇじゃねぇか。
 お前の弟、鬼か。今、先生の後ろに夜叉が見えたで」
「い、いや、昨夜蒸し暑かったろ。虫の居所が悪いんじゃね?」

 燐は必死に取り繕う。

「俺、先生だけは怒らさんようにするわ」
「僕も」
「ははは…」

 燐の乾いた笑いが廊下に木霊する。
 割れた窓ガラスから、蝉の鳴き声が一層キツク流れ込んできた。




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