ヘタリア小話
『永遠の向こう側』(東西兄弟)
「兄さん」
壁の向こう側から聞こえる声は、いつも少しだけ寂しそうだった。
ムキムキで強面で。ごついガタイの割りに、内面は意外に寂しがりやで涙脆い。
気性が真っ直ぐでクソがつくほど真面目だから、嘘を吐くのが大の苦手。
他人に捻くれものと呼ばれる自分の性格に多少なりとも自覚はあったから、そんな俺の背中をずっと見続けてきたコイツが、こんな素直で兄想いの気質に育ってくれたのは僥倖としか言い様がない。イギリス辺りが聞いたら、きっと泣いて悔しがるだろう。反面教師とかって混ぜっ返されるかもしれねぇが、最後にものをいうのは結果だ。ざまぁみやがれ。
俺様ってば子育ての天才?保護者の鑑?…と、夜空に向かって高笑いしかけたときに再び名を呼ばれて、プロイセンは肩を落とした。
―――そうでもねぇか。その、他でもねぇコイツに、こんな辛そうな声させてりゃな。
冷たいコンクリートの壁が、自分を形作る器の一部になったのは、勿論望んだことであるはずはなく、主義、経済、その他諸々―――様々なしがらみに取り付かれた他国と人間たちとの都合の結果だった。解体の憂き目に遭いながらも、未だ自分が国家として長らえているのは、この壁が存在する為と言っても過言ではないかもしれない。
今の自分の存在意義は、たった一人の弟との別離を礎に築かれたものだ。
くだらねぇ。………心底、そう思う。
「兄さん。聞こえているのだろう」
また、声がする。重厚なバリトンの中に、複雑な心情が透けて見える。
ドイツがここで口にするのはいつも、飼っている犬が大きくなったとか、イタリアがまたドジを踏んだとか、そんな何でもないような日常の話ばかりだった(政治や軍事の話など出来るはずもないから、必然的にそんな話題しか残らないのもあったのだろうが)。口下手な弟が、それでも懸命に語ってくれるそれが、プロイセンには嬉しく、微笑ましく―――そして少しばかり歯痒くもあった。
本っっ当、おまえは嘘が下手だなヴェスト。俺に心配を掛けまいと明るく振舞ってんだろうが、声に僅かに滲む寂しさを隠しきれていない。そして、この壁が持つ意味を知っていながらどうにも出来ない、自分自身に対する憤りも。
だが………時代は変わる。
今日まであったものが、明日も存在するとは限らない。
時流の変化というものは、突然だったり突拍子もなかったり捉えどころがなかったりで、何百年と生きてきた身であっても未だに驚かされることも多いのだけれど。それでも―――何となく、予兆のようなものを感じ取れるのも、やはり自分がこの地に深く根付いた存在だからなのだろう。
だから……何となくわかっていた。
『その時』は、すぐそこまで迫っているのも。
ドイツの声が、今日はやけに硬い理由も。
「今日……また……ハンガリーからの亡命者が来た」
「ふうん」
「………あなたの国の……民だ」
「知ってるよ。今更だろ」
恐らく―――もう、長くない。
壁は東の地の束縛を嫌った人々が西へと逃れるのを防ぐ為に作られたものだが、隣国のハンガリー経由で西へ渡ることが可能になった今、最早壁の存在は殆ど意味を為さなくなっていた。超えられぬものの代名詞として長く知られていたそれは、しかし自由を求める人々の声の前に、確実に終焉の時を迎えつつあった。
二つの国が統合される瞬間が、すぐそこまで迫っている。
そしてその時―――自分が……自分たちがどうなるのか。残されるのは、全てを背負う運命にある存在はどちらなのか。そして、時代に選ばれなかったものの末路がどうなるのか。そんなことはとうの昔から知っていた。ただ、それが今まで訪れなかっただけの話だ。
「俯くな。前向いてろ、ヴェスト」
息を呑む気配が、壁越しに伝わってきた。
口角の片端だけを吊り上げて、プロイセンはにやりと笑う。
「何でわかったのか、って言いたそうだな。俺様はヴェストのことなら何でもお見通しなんだよ」
数秒の沈黙の後、悲痛な叫びが聞こえてきた。
「何故……あなたが消えなくてはならないんだ……?これまで俺たちが共に背負ってきたものの重さや大きさに、何の違いもありはしないというのに……」
囁くように、すすり泣くように。
重く澱んだ激情を搾り出すかのように。
「明日にも消えるかもしれない身だというのに……理不尽だと思わないのか?何故、あなたはそうやって笑っていられるんだ……!?」
弟の顔を最後に見たのは28年も前のことだ。それでも、唇を歪め、肩を震わせて泣くその表情が、プロイセンには手に取るようにわかった。
「なあ、ヴェスト。おまえ、前に言ってたよな。かつてあれほど強大な力を誇っていたローマ帝国が、何故滅んだのかって」
紅蓮の瞳が、藍色に沈んだ夜空を仰いだ。背を預けた壁はひんやりと冷え切っていて、そこに凭れ掛かって泣く弟の冷たい手を思わせた。
「答えは簡単。………永遠なんてものはありえねぇからだ」
だから。抱き締めてやることが出来ない分、伝える声に温もりを込められたら。そう思う。
「国だろうが人だろうが関係ねぇ。誰もが生れ落ちたその瞬間から、滅びへの道を歩き始めてる。くたばる時期が早えぇか遅せぇか、辿り着くのに費やした時間が長げぇか短けぇかってだけの違いしかねぇ。望む形でそれを迎えられるかっつーのは、また別の話になるけどよ。けど……終焉ってぇのは、誰にでも必ず用意されてるもんだ。理不尽でも何でもねぇ、それが自然の摂理ってもんだろ」
「…………」
「ま、もし永遠がありうる話だとしても、俺様は願い下げだけどな。そんなもん」
ケセセ、と笑って、背後の壁をコツンとひとつ、手の甲で叩く。
「永遠ってことは、永久に変わらねぇってことだ。何の変化もねぇ人生なんざ、面白くも何ともねぇだろうが。限りがあるって知ってっから、生きてぇって思う。愛おしいとも守りたいとも思える」
慕わしげに見上げてくる、澄んだ利発そうな瞳を知っている。
素直で兄想いな、俺様のたった一人の自慢の弟。
守りたいと思ったのは、いつかは守ってやれなくなると知ってたからだ。
俺か……コイツのどちらかが……いつかは必ず消えてなくなるとわかっていたからだ。
永遠が約束されているなら、守る必要もない。ならばそんな感情は起こらない。
いつかは終わると知っているから……コイツの為に消えたくないと願い。
……そして、同時にコイツの為に命を賭けてもいいかと思えるようにもなった。
「永遠じゃないからこそ―――俺は今、ここにいる。おまえと過ごした時間を、掛け替えのないものだと胸を張って言える俺が、今」
「兄さん………」
「忘れんなよ、ヴェスト」
冷たい壁の向こう側から、それでも一心にこちらを見詰めているだろう蒼穹の眼差しを思い、プロイセンは言い切る声に力を込める。
「俺たちは世界に生かされているんじゃない。俺たちが世界を作るんだ。迷うな、振り返るな。おまえはただ、前だけを見ていればいい」
夜に染み入るように響いてくる密やかな嗚咽を耳にしながら、プロイセンは薄く瞳を閉じた。
ただ勢いのままに駆け抜けてきた、数百年の歳月を思う。
無茶も馬鹿も大いにやった。後悔だって数え切れないほどした。
けれど……俺は俺自身であったことを後悔したことは、一度もない。
今までも、これからも。俺様が俺様である限り。
俺はおまえの、そして―――おまえの生きる世界の幸せを祈っている。
28年もの間閉ざされていたゲートが、今、音を立てて開かれてゆく。
歓喜に沸く市民が、次々と境界を超えて壁の向こう側へと雪崩れ込む。長らく人々の心を縛り続けてきた壁の崩壊、その歴史的瞬間を迎え、ベルリンの街は今まさに熱狂の渦の只中にあった。
集まってきた人々で溢れかえる広場を、人波を掻き分けるようにして走り回る長身の青年の姿があった。満面の笑顔で歌い、踊り、抱擁を交わす人々の顔を一人一人覗きこむようにして、そこに見知った顔がないかと確認する。違う、この人も違う、ここにもいない――同じ作業を繰り返し、心が挫けそうになるたびに、青年はぎりっと唇を噛み締めた。
「いや、まだだ。俺は諦めんぞ」
幸せそうに笑う人々の輪の中に、あなただけがいない。そんなことは、俺が許さない。
世界を作るのが、俺たちの意志だというのなら。
―――今、俺が世界に願うことは、たったひとつだけ。
永遠なんかじゃなくていい。そんなものは望まない。
ただ、俺がこの世界にいる間だけでいいから。
唐突に背中を強く叩かれて、ドイツは激しく噎せた。
「背中がガラ空きだぜ~!!!」
振り返った視線の先では、紅蓮の瞳の青年が―――誰より会いたかったその人が、によによと笑みを浮かべていた。
喜びより驚きのほうが先に立って、満足に声を出すことも出来ない。ぴくぴくと顔を引き攣らせたまま固まってしまったドイツに、プロイセンは訝しげに眉を寄せた。
「何だよヴェスト、俺のこと探してたんじゃねぇの?」
「あ、あんな最後の別れみたいな台詞抜かしておいて、こんなにピンピンした姿で現れたら、誰だって吃驚するだろう!?」
顔を真っ赤にして大声を上げるドイツの目の前に、プロイセンはすっと人差し指を突き出した。
「言ったろ、ヴェスト。おまえは前だけを見てりゃいいんだって」
「………」
「何故なら、おまえの背中はこの俺様が、小鳥のように格好良く守ってやるんだからよ」
永遠なんてものはありえねぇから。
だから。俺様は俺様である限り。
俺はおまえの、そして―――俺とおまえの生きる世界の幸せを祈っている。
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一度は書いてみたかった東西兄弟。ベルリンの壁崩壊ネタ。
パラレルでのギルの扱いが酷すぎたので、埋め合わせも兼ねて(苦笑)
不憫はどんだけ普憫でも、ドイツにとっては世界一格好良いお兄ちゃんだといい。
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