「手が開かないとペディキュアもできない。」
だから少し、不便だなと思った。
開かないと爪が切りにくいし。
未だ文字は左手で書けるんだけれども。
「じゃあ開けばいいじゃん。」
彼女は朱いペディキュアをふっと吹きながら乾かしながらそう云った。
扉がないなら壊せばいい的な考えだ。
それに人の話を無視している。
「私は開けないって云ったような気がする。」
彼女は人の話を聞かない。その癖指先は美しい。
それが少し、私には羨ましい。
だって私の右手は開かないから彼女のように爪を赤く染めることも出来ない。
「開けばいいじゃん。」
繰り返し、彼女は云う。
「まだ云うか。」
「開けばいいじゃん。」
「開かないんだって。」
「なんで開かないの。」
なんでってそういうことはなかなか聞かれないから答えに戸惑う。
大概、人は何かの障害と思って聞かないのだ。
可哀想だとでもいうような顔でなにも云わない。
そんなものではないのに、ね。
「開けないの。多分、掴もうとしたんだろうね。それでそのまま。」
「なにを。」
さして興味がある素振りも見せず彼女は云った。
「わからない。なにを掴もうとしたんだろう。」
よく覚えていないのだ。
手にはなにかを掴んだ感覚はない。
だからきっとそれは私の手の中にはなくて何処か遠くにあるのだろう。
「いつから開かないの?」
「いつから…いつからだろう。生まれたときは開いて
たのに。」
左手を握ったり開いたりしてみる。
それから右手を開こうと思ってもびくともしなかった。
なにをそんなに離したくないのか。
なにをそんなに掴みたいのか。
我ながら分からない。
「もう、忘れてしまったよ。その程度のことなんだ。」
そうは思ってもしつこく
右手は開かない。
忘れた私を責めているのだろうか。
「人は大切なこと程忘れやすいらしいよ。」
彼女は云った。
「私たちはどんな大切なことでも忘れてしまう。
その証に私たちは一番愛されていた頃を覚えていないでしょう。忘れてしまったのよ。」
慈しむように彼女は自分自身を抱きしめた。
「一番愛されていた時?」
それは、いつだろう。
今ではないことは確かだ。
「だからさ。」
「うん。」
「あんたがなんで手を開かなくなったのかって云えばそれは大切すぎて忘れてし
まったんでしょ。」
「そうなのかな。」
近いものほど見えないのと同じだろうか。
「きっと、そうだよ。…いつか、思い出せたらいいね。」
「…うん。思い出せたらいいな。」
私の返事に満足したように口の端を上げて彼女は笑った。






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そのわりにオチ?なにそれ。食べ物?みたいな感じですいません。
でも、愛は籠もってます。籠めました。



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