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ス   ピ   カ
  



切っ掛けは一体何だったんだっけ。
そう考えて、兵悟はひっそりと溜息を吐いた。部屋を満たす空気はぴりぴりと肌に痛いほど張りつめて、溜息すら容易に出来る雰囲気ではない。だからなるべく密やかに吐き出したつもりだったのに、吐息は思いもよらず長く深く響いた。それにもまた暗澹たる気分になって、兵悟の心は否応もなく重みを増す。
切っ掛けは一体何だったのか、考えてもよく思い出せない。多分それくらいささやかなことなのだ。でも理由が何であれ彼らの喧嘩は本物で、もう一時間も口を利いていない。お互いに背を向け合って、目も合わせていない。そうすると、兵悟の意識は自然自らの裡へ裡へと潜行していった。
この喧嘩の切っ掛けは、…切っ掛けは、そう、多分兵悟がしたある話題だった。
無論それだって、何か盤をからかったとか馬鹿にしたとか、そんなんじゃない(盤じゃあるまいし)。兵悟にとっては何気ない、当然悪意もなければ作為もない、話の流れとして話題にしただけのことだ。
今日は二人で出掛ける約束をしていたので、準備が出来た兵悟は盤の部屋を訪れた。盤は仕事や他の面子と出掛けるときはそうでもないのに、こと相手が兵悟となると、あまり約束の時間通りには支度をしてくれない(そして、それは盤が「他でもない自分のことを待っていてくれる兵悟」を見たいが為の随分と可愛らしい策略であることを、兵悟は知らない)。だから二人出掛けるときはいつもどこかで落ち合うのではなく、兵悟が盤の部屋を訪れることになっているのだ。
だから今日もそうした。そして兵悟の記憶が間違っていなければ、兵悟を出迎えた時点では盤はいつも通り、…いつもより機嫌が良いくらいだったのに。
何が切っ掛けだったのかな、と、重苦しい雰囲気から逃れようとするかのように兵悟はまたぼんやりと考える。
盤の所属が四隊で兵悟が三隊なので、基地で顔を合わせる機会は結構ある。でも何分勤務中のことなので、長い時間の会話となると久し振りだ。だから兵悟はのろのろと支度をしている盤の背中を座って見ながら、色々と近況を報告した。盤はあまり興味なさそうに相槌を打っていたけれど、その割にいつもちゃんと聞いていてくれることを兵悟は知っている。
最初は自分の所属する隊の話になって、…そうだ。それから烏帽子岩での訓練の話になったのだ。
「メグルくん、磯波訓練ってもうやった? 烏帽子岩の」
「まだやっとらん。来週行くことんなっとる」
「そっかー。俺の時はちょうど低気圧が来ちゃってて海がすっごい時化ててさー。大変だったんだよ」
ちょっと溜息混じりに兵悟がそう言ったら、盤が振り向いてにやりと笑った。あ、またからかわれるなと思ったけどもう遅い。
「何ね? 兵悟くん、弱音?」
「違うよ! ただ大変だったんだよって言っただけじゃん! メグルくんってどうしてそういっつも…」
意地悪ばかり言うんだと責めようとして、やめた。どうせ言ったって盤は改めやしない。
それに最近兵悟は分かってきたのだ。盤がしきりに兵悟をからかう、それは単なる意地悪だけじゃないということ。
どこまでも真っ直ぐな気性の兵悟には分かりづらいことこの上ないのだけれど、これは盤にとっては一種のスキンシップ。しかもじゃれ合いみたいなものなのだ。単なる意地悪ではなくて(無論意地の悪さも幾分かは含む)、彼が自分に気を許してくれている証拠だと気付いてからは、あまり怒らないようにしている。こういう風に弄られることに慣れていない兵悟はそれでもやっぱり出来れば止めてほしいなと思うけど、多分言うだけ無駄だろう。兵悟は思わず溜息を一つ吐いた。でも、その溜息にも盤が楽しげに唇を撓めたことに気付いた兵悟は、さすがに少しばかりむくれる。
「弱音なんて全然吐いてないよ。大体俺、ちゃんと磯波訓練こなせるようになったもん。コテツさんが、すげー丁寧に教えてくれたんだから」
視線を落とし、盤に訴えると言うよりも殆ど独白としてそう呟いた兵悟は、だから気付かなかった。兵悟がそうして何気なく漏らした一言に、盤が酷く不快げな表情を露わにしたことを。
気付かなかったので、兵悟はその独白を止めなかった。弱音なんて吐いたつもりはない。でも、反省すべき点がないわけではなかったから。
「俺、あんな早朝にコテツさんのこと無理矢理引き留めて、コテツさん、まだ眠かっただろうなあ。何か俺、一つのことに集中しちゃうと周りが見えなくなっちゃうんだよな。気をつけなきゃ…。
 …コテツさんには、きっとすげー迷惑だったよなあ。でもあんなに丁寧に教えて貰って、…ていうか俺ちゃんとお礼言ったっけ? 言ってないじゃん!」
これは良くない! と顔を上げた兵悟は、睨み付けてくる盤と目があった。盤の双眸はレンズ越しにもギラギラと不穏な光を放ち、言葉よりも尚雄弁に彼が感じている不愉快を兵悟に伝えてくる。でも、兵悟はそれに面食らってしまう。今自分でも反省したとおり「一つのことに集中すると他が見えなくなる」状態だった兵悟には、何故、何に盤がそんなに怒っているのか、皆目見当も付かなかったのだ。
「メグル、くん、…どうしたの…?」
恐る恐る尋ねたら、一層強烈に睨まれる。兵悟は思わず体を竦めさせた。
そんな兵悟の反応に、盤は嘲りも露わに片頬を歪める。肉厚な唇の口角がきゅっと窪んで、そういう風に笑う盤はとんでもなくエロティックだ。兵悟はその表情が苦手だった。心臓がギュッとなるのだ。
「どうしたと? どうしたとやって?
 ハッ、兵悟くんは同情ば集めっとが上手だけんね。どうせまた哀れっぽく泣きついたんやろ?」
「…な……ッ」
「そのコテツていう人も大概お人好しの馬鹿やね。可哀想ばい。あっさり兵悟くんに誑かされたんだけん」






三分割の一話目。






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