01.

 静まりかえった校舎のどこかから、誰かの練習するトランペットがたどたどしく同じフレーズを繰り返す。
 11月も終盤の、よく晴れた土曜日。昼寝するには空気が冷たすぎるが、ききすぎた暖房やら教室に詰め込まれた高校生35人分の熱気やら土曜日特有のどこかうわついた気分やら、そんなもので火照った頬を冷やすには屋上はちょうどいい場所だった。
 学園祭なんか、心底どうでもいいんだよ。
 白いタイルの上を転がってきたジョージアの空缶を足先で転がしながら、綾瀬は小さく毒づいた。
 お化け屋敷だの出店だの、要するに密かに気になるあの子とラブチャンスだとか知られざる自分の魅力アピールだとか。各人の期待と妄想でテンション普段の3割増のホームルームは綾瀬がちょっとトイレ、と席を立っても気にする者は誰もいなかった。
 いつもならこの類の浮かれムードの波には積極的に乗る自分だが、今はとてもそんな気分にはなれそうにない。巨大な球形をした貯水タンクの根元に腰を下ろすと、知らずにため息が出た。
 好きだったのに。あんなに好きだったのに。
 こんなに気持ちはつらいのに、ありふれた歌のフレーズのような言葉しか浮かんでこないのが情けない。相手からにせよ自分からにせよ、別れてこんなに引きずる恋はなかった。
 タイルにくっきりと焼きついた貯水タンクのまるい影の傍らに寝転がり、顔を覆った腕の隙間から空を見上げる。雲ひとつない紺碧の空。いっそのことあの空に吸い込まれてしまいたい。逆光を受けて中空にそびえるタンクは、ちょうど巨大な天体模型のようだった。
 カラカラカラ、と空缶が再びこちらに転がってきて、顔の真横でピタリと止まる。
 なんかもう泣いちゃおうかな、誰も見てないし、と半ば本気で思いかけたとき、聞き慣れた声が頭上から降った。
「見つけた、綾瀬てめえこんなとこにいたのか」
 貯水タンクの縁で頬杖をつく小柄な姿は逆光でよく見えなくとも、その声と口調は明らかに友人のもので。
「わ、佐藤…」
 ずいぶん長ぇトイレだなおい?と続けた佐藤は綾瀬が起き上がる前にダン、とその傍らに着地し、綾瀬の顔の脇10センチに転がっていた空缶を踏みつぶした。
「え、あの、なんか怒ってる?」
 あわてて身を起こした綾瀬の前にしゃがみこみその顔を覗き込んだ佐藤は一瞬おや、という顔をしたが、すぐに不機嫌な表情に戻った。
「…怒ってるかだって?」
 ムニ、と両頬を挟まれて呻く綾瀬にはお構いなしに佐藤は言葉を続ける。くっきりとした二重まぶたと密に茂るカールした睫毛。その奥の黒目がちな瞳。つんとした小さな鼻、桜色の唇。4月のクラス替えで初めて佐藤に出会ったときは、その声を聞くまで綾瀬は彼が学ランを着ているのは何かの間違いかと思ったものだ。性別と中身はさておき顔だけ見れば結構好みだよなあ…と4月以来122回目くらいに心のどこかでぼんやりと綾瀬は思った。
「しょぼくれた犬みたいな顔しやがって…ウチの出し物何に決まったと思う?メンズメイド喫茶だとよ!お前の1票が足りなかったばっかりによッ!」
「メンズ…メイド…?」
 男がメイドのカッコする喫茶店だとさ、と吐き捨てて佐藤が腰を上げる。教室は暑かったのだろう、白いシャツが風に吹かれてハタ、と揺れた。
「佐藤も着るの?メイド服。」
 深く落ち込んでいるはずなのに、それはちょっと見てみたいかも…と思う自分もどこかにいる。視線に促されて綾瀬も立ち上がった。
「そんなの着るわけないだろうバカ、俺はケーキの味見係だ。当然だけどお前はメイドに決めといたから」
 佐藤は先ほど踏み潰した空き缶を拾い上げ、出入口の扉の横に置かれたバケツめがけてぽいと放り投げた。青い空に缶が描くうつくしい放物線を綾瀬は呆けたように眺める。
 気がつくと、トランペットはいつのまにか止んでいた。きっと奏者が昼飯でも食べに行ったのだろう。
 女子たち盛り上がってたぜ、とたちの悪い笑みを浮かべる佐藤にやっぱり顔だけなら以下略。と123回目の思いを抱きつつ、これって怒るの俺の方じゃん?という疑問を飲み込みつつも、結局綾瀬は佐藤に言われるがまま、ラーメンを食べに行くことにした。








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