獲物が取れるまで帰ってくるなっ!
叩かれた頬が痛い。
赤く腫れてしまった部分を無意識に撫でながら、ライは途方に暮れたように湖の前で座っていた。
抱え込んだ膝に顎を乗せ、ぼんやりと陽の月が赤く映りこんでいる湖面を見つめる。
飛び跳ねて、追いかけて。
我武者羅にナイフを操ったけれど結局一匹も捕まえられずにいた。
朝方、陽の月がまだ昇らない時間からこうして食べ物も口にせず、追っていたけれど上手くいかない。
腹がへってどうしようもなく、先程一度帰宅したら父親に見つかりこうして追い出された始末だ。
「………どうしよう」
このままだともう、今日月は家に帰れないだろう。
湖を見つめていたライの瞳にうっすらと涙が滲んだ。
握り締めたナイフが小さく震える。
だが、何より父親に叱られる方が怖くて仕方なかった。
何か捕まえて帰らなければ蹴られる。
いや、今から仕留めて帰ったとしても遅いと言われて殴られるかもしれない。
「もう、やだ」
父親の前では言えない言葉がするりと喉から零れ落ちた。
額を膝頭にくっつけて耳を思い切りペタンと伏せさせる。
何も聞くまい。
全ての外敵から身を守るようになるべく躰をちぢこませ尻尾を躰に巻きつけた。
カタカタと全身が震えるのは寒さと恐怖からか。
混乱した頭ではよく分からない。
ライはギュッと目蓋を閉じた。
目尻に溜まっていた涙が雫となって剥き出しの痣だらけの太ももにポタリと落ちる。
「……ィ!ラ……ィ!」
「
……?」
と、不意に背後の森から自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
ハッとして顔を持ち上げる。
振り返り真っ赤になった瞳で後ろの森の中を探った。
この声は、安心できる。
いつも、聞いていた声だから。
「バル……ド?ッ、バルド!」
恐る恐る一度だけ名前を呼んでみる。
それからもう一度今度は大きな声で叫んでみた。
「ライッ!此処にいたのか」
森の奥から姿を現したのは、やっぱりライが一番心許している青年だった。
頬や頭に葉っぱをつけながら、駆け寄りバルドは突然ライを抱き締めてくる。
忘れかけていた他の猫の温もりに、一瞬驚いたが不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
強張っていた躰からふっと力が抜けていく。
「心配したぞ〜。遊びに行ったらいないんだもんなぁ」
「ごめんなさい……でも、獲物を仕留めてないから、帰れなくて」
バルドの明るい笑顔に、ライは困ったように眉根を下げた。
自然視線も地面に下がってしまう。
これが父親ならば此処で一発殴り飛ばされていたことだろう。
雄ならば、強くあれ。
雄ならば、そんな行動をするな。
いつもいつも、同じことの繰り返しだ。
褒められる事なんてない。
出来て当然の世界だった。
「でも、でもね!きちんと捕まえて今日月中には帰るから、お父さんにそう伝えておいて欲しいんだ」
出来なければ猫ではない。
刷り込まれて育った。
必要のないリビカになりたくない。
父親の使いで来たのかもしれないバルドに必死になってそう言った。
こんな所でぼーっとしていたなんて知られたら、また何をされるか分からない。
顔見知りのバルドでも、油断は出来なかった。
「………大丈夫だよ。そんなに怯えなくたって。俺はな、あんたを手伝いにきたんだ」
焦りと恐怖に顔を歪ませたライを見下ろして、バルドが小さく苦笑を零す。
それから大きな手をポンとその白い頭に乗せた。
グシャグシャと掻き混ぜるようにその頭を撫でながら、バルドは大きな薄青の瞳を覗き込む。
「ほんと?手伝って、くれるの?」
バルドの言葉があまりに驚いたのだろう。
ライの瞳が更に大きく丸くなった。
涙で濡れた目尻を優しく親指で拭いながら、大きく頷いてやる。
「でも、其れより先に、まずは飯だろうな」
腹、へっただろう
そう言いながらバルドは持ってきていた材料が入った袋をライの目の前で紐解き始めた。
そんなバルドの近くで一緒になって袋を覗き込むライの腹が、空腹を訴えるように盛大になり始める。< br />
「あ………」
「やっぱりなぁ。よしっ!じゃあ今日月はあんたの好きなものを作ってやるからな」
恥ずかしくて真っ赤になり俯くライを見て大きく声を上げて笑いながら、バルドはいそいそと薪の準備をしだした。
陽の月は既に沈んでいる。
薄闇の中でバルドとライの二匹の声だけが響いていた。