鳥籠の蓋は開いている



 いくらなんでもこの状態が異常であることくらい、不動遊星にはわかっていた。
 身体の自由がトップスのワンフロアのみに制限された生活。サテライトのように衣食住に困ることはないが、これはまさしく監禁だ。
 けれどそれに誰も異をとなえない。となえられない。なぜなら命じているのがジャック・アトラスだからだ。気難し屋のキングは遊星を傍に置くことを望み、それをゴドウィンが許可した。
 遊星は一日中ベッドの上にいる気にはなれなくて白いふかふかなソファに座る。多人数掛けのソファに一人座っているのは落ち着かないし暇だったが、もう慣れた。
 パソコンをいじったりジャックや阿久津がたまに持ってきてくれる専門書を日がな一日読んでいれば時間は潰れる。特に阿久津のチョイスときたらマニアックで少々モーメント関連に偏りがちではあったが、同じ技術畑の遊星にとって面白いものばかりだった。
 輝かんばかりに照り付ける夏の陽射しも遊星に直接届くことはない。
 ここはガラス張りの牢獄だ。誰もがいつかは気が狂う。
 ジャックのいない間、遊星は一人だ。ネットワークに繋がったパソコンを扱える状態にしておくことがどういうことか長官にわからないはずがない。
 トップスのセキュリティに全幅の信頼を置いているのか、それともどうせ逃げないと高を括られているのか。後者だと認めるのは癪だった。
 試しに警備システムにハッキングしてみたら、あとエンターキーひとつで入口のロックが外れるというところまできてしまった。しかしその最後のキーがどうしても押せない。かたかたと震えた右手を左手でぎゅうと包む。自分だけ逃げることなどできなかった。
 鼓動が速い。身体を縛る見えない枷も鎖も既になく遊星は限りなく自由だったが、ジャックという同胞がいなければどこまでも孤独だった。
 ジャックの顔が目に浮かぶ。帰ってきて閉じ込めていたはずの遊星がいなかったら、彼の顔にはどんな表情が浮かぶだろうか。
 自分を棄てたあんな奴、憎んでも憎み足りないはずなのに憎み切れない。遊星はジャックのことをまだ愛していた。
 だからここにいることを許容している。段々精神を患っていく彼が唯一望んだことだから。
 彼が遊星を掠ってきてからというもの、ペントハウスに遊星がいることがいつしか当たり前になっていた。当たり前が当たり前でなくなる。怒り、悲しみ、驚愕、失望……その感情を遊星は確かに知っている。しかしジャックの顔に浮かぶそれを遊星が見ることはないのだろう。
 キーを押したら最期、もう二度とジャックには会えなくなることだけは明白だった。自由になるのを心が咎める。離別するのは嫌だと勝手な心が叫ぶ。
 パソコンの電源を切り、ソファに深く身を沈めて嘆息する。疲労感ばかりが募って、テーブルの上のハードカバーを手にとった。モーメント構築理論は気分転換になるだろうか。
 頁をめくりながら考える。心もデータのように割り切れたのならよかったのに。しかし心がただの神経細胞の煌めきにすぎないといっても、そんな人間は既に人間ではないのだ。
 遊星がけだるげに活字を目で追っていると人の気配がなかったペントハウスに家主が戻ってくる。そういえばもう夜だった。内容の半分も頭に入っていない本をぱたんと閉じる。
「ただいま、遊星」
 ジャックはまっすぐに遊星のもとへ歩み寄ると、黒髪を掻き分けて額にそっとキスをした。そして口角を上げてにっと子供のように笑う。
「おかえり」
 そんな彼の笑顔に心臓が締め付けられる。自分のしていたことが後ろ暗いことのようでまともに顔を見ることができない。
 彼は遊星の態度に若干の訝しみを感じながらも、肩を抱いてロフトを登る。白いコートも脱がずに遊星を下敷きにしてベッドに倒れ込む。余程疲れているのか。
「今は相手はいい……傍にいてくれ」
 ほんとうは抱きたいくせに、狂気じみた瞳で聞き分けのない子供のようにぐずる。
 ジャックはぎゅうぎゅうと縋るように抱き締めるので身体中が痛かったけれども、苦しいくらいは我慢しようと思った。背中にまわした腕で背骨にそって撫でさすっていると、狂ったような熱情が段々治まってゆくのがわかる。
 深い眠りに落ちたことを確認してから、遊星は彼の腕の中からずるずると這い出す。喉が渇いた。
 シーツに散らばる金髪を指先で撫でてからロフトを降りる。階段の下には一人の女性が立っていた。
「……アトラス様は正気ではありません」
 遊星は階段の中程で立ち止まる。ジャックが起きてくる気配はなかった。
「あいつが正気だったことなんてあったか? もっとも、あいつ自身は自分が狂ってるなんてカケラも思っちゃいないだろうがな」
 狂人は自分が狂人だとは思わないものだ。彼らは他の人間達よりも強く自己肯定をしている。正気と狂気の境目がどこにある? そんなものはどこにもない。目に見える形では存在していない。
「お逃げください。彼はいつかあなたを殺してしまう」
 逃げる手筈を整えておいたのだと狭霧は言う。しかしそれが成功すれば確実に彼女の身を滅ぼすだろう。そんな後味が悪いことはしたくなかった。
「どこへ逃げるというんだ? ジャックを見捨てて。あいつは俺無しでは生きていけない。誰にでもわかる形で発狂するのがオチだ」
 どこかうそぶくように役者然として遊星は呟く。月灯りを受けて青白くてかる肌に狭霧は僅かに恐怖を覚えた。
「あなたはまだ正気ですか?」
「どうかな? この状態が異常だと断言できることが正気の基準だとすれば今は間違いなく俺もあんたも正気だ。でも、異常な状態が長く続けばそれはやがて日常となる。人は日常に疑問など抱かない」
 それが慣れということだ。静かに、確実に精神が蝕まれていく。それは一人だけの問題ではなく、関わる全員の内に奥深く進行する病だ。一度常識となったことを疑うものはいない。
「本当は、いつだって逃げられるんだ。けどそれでは何も解決しない」
 じわりとまわる毒のような狂気は止まらない。この袋小路から抜け出す方法があるのかさえもわからない。待ち受ける結末がわかりきっていても彼が本当に救われなければ意味がない。
「彼の精神が病んでいくのを間近で見るのは辛く、ないんですか」
「辛いさ。でも俺は狂ってるところも愛してるらしいんだ」
 遊星はにやりと笑った。

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