地下室の幻夢
あれから何日たったのだろう。夜が来れば自然と目覚めるのは吸血鬼の本能ゆえだが、間断ない飢えにさらされて本能が涸れてしまった。
身体の消耗に引きずられるようにして浅い眠りに落ち、ふと目を覚ます。また、眠る。そんな意識の揺蕩いが日常になって久しい。
尤も、夜を数えるのはたやすかった。日が落ちると忌むべき同族の男どもは、欲望を鼻面にぶらさげてこの地下室を訪れる。そして抵抗する気力も体力も失われた囚われの純血種を嬉々として犯し嬲り、創造者たる神すら嫉妬するであろう美貌に生臭い精を浴びせた。それが、彼、緋魅にとっての“夜”だった。
だから、夜を数えるのはやめた。それは記憶に陵辱の刻印を捺すようなもの。早く忘れて、消し去った方がいい。もちろん、忘れることなど到底できないと分かっているのだが。
「ゥゥ……」
喉の奥から漏れる唸りはまるで、下等な獣のようだ。堕天使に連なる純血の吸血鬼、高貴な一族としての矜持が疼くが、臓物を灼くような飢えには抗えない。男たちに執拗に貫かれ、乱暴に扱われた身体の痛みも、波濤のごとき飢えの前では漣も同然だった。
その時、緋魅の鼻孔を甘い、甘い香りがかすめた。若く、張りのある肌の匂い。その下にうっすら透ける血管が、生き生きと脈打つかすかな音まで聞こえる。
飢えから来る生存本能によって、極限まで張り詰めた五感が、ついに妄想を紡ぎ始めたのか。いや、違う。これは───
次の瞬間、緋魅は残る体力の全てを使って“それ”に飛び付こうとした。しかし四肢に嵌められた鉄枷が、無情にも壁に繋ぎ留める。
緋魅はガチガチと歯を鳴らし、赫眼をぬらりと輝かせて、ここにいるはずのない獲物を睨め付けた。その時、
「……緋魅?」
闇から聞こえた声に名を呼ばれ、正気を失いかけていた緋魅の頭はキリキリと凍結するように我を取り戻した。
「……誰だ」
すると、問いに応えるように闇の奥からシルエットが。それは紛れもなく人間だった。年齢は18歳くらいだろうか。左目に黒い眼帯を嵌めた青年。その顔には、純粋な驚きが張り付いている。
「本当に……緋魅なんだね」
「お前は何者だ。なぜ、俺の名を知っている」
すると青年は苦しげに眉根を寄せて、小さく首を振った。
「話しても信じてもらえないだろうけど、ともかく俺はあなたのことを知っている。あなたが、今、どういう状況なのかも」
青年はそう言って、近づこうとした。緋魅は咄嗟に身構える。
「近づくな」
これは罠に違いない。あの下等な混血種どもが仕組んだ罠。餌をぶらさげてより飢えを煽り、苦しめようという魂胆か。ともかく、ここで我を忘れてこの青年に噛み付くのが、得策でないことくらいは分かる。しかし、
「大丈夫だよ。安心していい」
青年はまるで、緋魅の思考を読んだかのように、宥めの言葉を口にした。
「何も裏なんてない。俺自身、なんでここにいるのかよく分からないけど、きっと、強く願ったから叶ったんだ。幽閉されていた時の緋魅に、俺の血を捧げたいって願いが」
青年はそう言って、首から胸元に続くボタンを外して首筋をさらし、
「さあ、これでわずかでも、緋魅を苦しめる飢えを癒してくれ」
青年は穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくり近づいてくる。緋魅はごくりと喉を鳴らしたが、すぐに乾いた笑いを漏らした。
「お前が何を企んでいるか知らないけどな、無理だ。今の俺には、お前の意識を麻痺させるだけの魔力が残っていない」
青年はきょとんと両目を見開いたが、やがて破顔して「なんだ、そんなことか」と言った。緋魅は軽く舌打ちし、
「意識が鮮明なまま、太い牙に皮膚を破られてみろ。とんでもない激痛で悲鳴どころの騒ぎじゃない。仮にお前が奴らの仕掛けた餌じゃないとしても、すぐ見つかって終わりだ」
緋魅は、しごく真っ当なことを言ったつもりだった。しかし青年はからりと笑い、
「大丈夫だ。その痛みはもう知ってる。耐えてみせる」
「バカなことを───」
緋魅が呆れているうちに、青年はすぐ目の前まで近づいた。そして、
「あなたの糧になれることは、俺にとって無上の喜び。さあ、存分に吸ってくれ。そして……生き延びてくれ」
「おまえ、は……」
ほのかな体温を放つみずみずしい肌が、強力な誘いをかける。罠かもしれぬという疑念は、不思議なことに消えていた。瞬間的に意識が飛び、次に意識が繋がった時には青年の首筋に牙を沈め、一心不乱に吸い上げていた。
喉に流れ込む温かな液体の、なんとかぐわしいこと。それは、身体を内側から灼く焔を静め、別の熱をもたらした。命の迸りという熱を。緋魅は、自身の生命をこれほどまでに強く生々しく実感したことはなかった。
「う…ぐッ……」
低い呻きが緋魅の耳に届いた。それは、凝縮された苦痛そのものだった。ふと視線を下げると、固く握り締めた拳が血管を浮き上がらせ、ぶるぶる震えているのが見えた。
その痛みはもう知っていると青年は言った。しかし知っているのと身体で実際に受け止めるのは違う。
───馬鹿だな、お前。なんでここまでして……。
人間には少数ながら、自ら望んで血を吸われる者がいると父に教えられた。餌になることで初めて、自分に何らかの価値を認めることができる、自分が生きることを許すことができるのだ、と。
実に愚かだ。こいつもその愚かな人間の一人なのだろうか───
「ぅっ……」
緋魅が牙を抜くと同時に、青年はよろめいてその場に座り込んだ。暗がりでも、顔が青ざめているのが分かる。相当消耗しているようだが、労わりの言葉など掛けるつもりはなかった。彼が、自ら望んだのだ。
「緋魅……」
「なんだ」
青年は、吸血痕にそっと指を這わせた。そしてかすかに潤んだ瞳を向け、
「ありがとう」
その表情に、血を吸われることで自分の価値を認めたいという卑屈さはなく、ただ、衒いない喜びが咲いていた。それを、緋魅は美しいと思った。
「お前の、名前は……」
急激に飢えが満たされたことによる睡魔が、頭と身体にずしりとのしかかる。久しぶりの、本当に久しぶりの幸せな微睡みに吸い込まれながら、緋魅はその名を耳にした。
「藍─────
目覚めは唐突だった。それはいつものこと。日が落ちるとともに、本能に弾かれるように覚醒する。最前まで見ていた夢のリアルさを物語るように、口の中がかすかに甘かった。もちろんそれは、錯覚に過ぎないのだが。
緋魅はそのまま軽く目を閉じ、すぐ近くから聞こえてくる規則正しい寝息に耳を傾けた。眠りの深さは、安息と幸福と信頼を表している。この牢獄めいて陰鬱な地下で、これほど幸せな眠りを貪ることができるとは。
緋魅は思わず苦笑を漏らす。そして目を開けて、彼に視線を落とした。彼は外した眼帯を片手に握り、もう一方の手で緋魅の上着の裾を掴んでいた。その額を指先でぴんと弾き、
「勝手に人の夢に出てきやがって」
幽閉されていた頃の夢なら、数え切れぬほど見た。未だ過去の幻影に囚われている己の弱さに歯噛みしたものだが、今回の夢はそれらとは異質だ。願望を反映したもの。つまり、限界が近づいているということだ。
藍を救うためルベドへの変容を遂げてから、これで七度目の夜。恐らく、今夜が最後の夜になるだろう。
「ひみ……血、吸っ…て……」
彼らしい寝言に、緋魅はやれやれと肩をすくめ、
「吸わねえよ。もう二度と」
緋魅はゆっくり立ち上がると、迫りつつある破滅の運命に身を投じる覚悟を決めた。
(Fin.)