左頬にじんじんと感じる痛みが、ぬるくてたるんだ空気の中でずっと存在し続けた。永劫、消えることがないと思えるくらいにしぶとくしつこく、張り付いたかのようにずっとそこにいた。消えなければいい、と、馬超は思った。 「無礼な。丞相閣下を侮辱なさるのは軍規に反するということをわかっていらっしゃらないのですか。」 「……別に丞相閣下を侮辱しもうしあげたつもりは、ない。」 「ならばあなたが仰った言葉を思い出して御覧なさい。」 月英の目は怒りに満ちていた。夏の近づいた熱い廊下で、馬超が月英にふと漏らした言葉が彼女の癪に障ったらしい。 「あんなことを……!!」 わなわな、と震えるよう様子は見ていて面白いくらいだった。ただ一人の男のことでここまで怒る女が、面白くて仕方なかった。 「……あんなこと、か」 月英にとって馬超の口から出るのは所詮「あんなこと」かと、空しく頭にきた。 「月英殿は丞相閣下の何が良くてご結婚された?昔は未来も金もないようなただの貧乏人だったのに、どうして?富も名声もない……」 「そんなことは……孔明様はいつか必ず天へ昇られると信じておりましたから。」 「……酔狂だな。月英殿とて嫁の貰い手がなかったのだろう?貴女のご実家はえらい名家だったそうではないか。お互い、打算はあったのだろう?」 「そんなことはありません。」 「……俺は、丞相閣下がそれほど大切にすべき男とは思えんがな。国事を背負うに尊敬には値するが、旦那としては……」 俺のほうが向いていると思うが。その言葉を続けようとしたら、平手が飛んできたのだ。軽い軟派の気持ちでそういう話をしたかっただけだったのに、これほどまで怒りに打ち震えている月英を馬超は驚き半分呆れ半分、それらをひっくるめて馬鹿にするような気持ちでおかしく思っていた。 「謝ってください」 「貴女に謝ったからどうだという?しかも俺は、ただ……」 馬超はそこまで言って言葉を呑んだ。その先を言えば、また平手が飛んでくるのはさすがに分っていた。 自分が驚くほど打算的で卑怯になっている。馬超はそのことに気付き、月英に対して理由ない緊張を感じた。月英を怒らせた自分の悪さが、いかに大きいかを思い知らされるようだった。 「……なんですか。弁解をするなら、なさい。」 「言っても構わぬのか?」 「ええ。」 「……ただ、あなたを口説いてみようとおもっただけだ。」 声が裏返ったのを、すぐに咳払いで誤魔化そうとした、その瞬間にまた、右頬に平手が飛んできた。むせこみ、うまく息ができなかった。 「もう、結構です。」 月英はそのまま廊下の向こうへと消えていった。 暑さのもたらした時間を埋めたかっただけだった。そのために選んだ話題が、よりによってどうして彼女の夫の話だったのだろう。どうして、口説こうなどとしたのだろう。 とても卑怯で汚いやり口だ。 両頬も外気もあまりにあつく、馬超は考えるという行為を放棄した。 |
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