がらりと戸の開く音に、一人机に向かっていた小太郎はふと顔を上げた。
半分開かれた教室の前のドアから、廊下の声だけが飛び込んでくる。
「松永先生ってばひどーい、生徒の顔間違えないでよー」
「すまないね、遠目だったので。目はあまり良くないのだよ」
きゃあきゃあと遠くからでも良く響く女子生徒の声に答えながら、
やがて名前を呼ばれたその人物が扉の向こうより顔を出した。
後ろ手にドアを閉めながら溜息ひとつ、そこでようやく松永は自分を見つめる
小太郎の姿に気が付いた。
「なんだ卿か。居残りかね?」
尋ねる松永にも無言で答えず、じっと向けられる小太郎の視線が自分の胸元に
注がれているのを見て取って、松永は小太郎の言わんとする意味を悟る。
「ああ、聞こえていたのか。――掛ければいいのに、と?」
こくんと頷く小太郎の目線の先で、松永はシャツの胸ポケットに手を差し入れると
蔓の細い眼鏡を取り出した。
それを指で弄びながら、松永は先程女子生徒に向けていたと思しき、張り付いたような
笑顔のままであっさりとのたまう。
「目が良くないというのも何かと有難いものでね、醜いものをはっきりと見ずに済む。
 己の網膜に焼き付けるものを己で選別する自由があっても良いと思わないかね?」
そうして松永はおもむろにその眼鏡を掛けると、
「で、卿は一体何の課題に苦戦しているのだね」
つかつかと小太郎の方へ歩み寄ってきた。
「ふん、下らんな。こんなもの中学の数学の応用で充分解けるだろうが」
背後から肩越しにノートを覗きこむ松永の眼鏡の縁が耳元を掠め、一瞬の冷たい感触に
思わず肩を揺らしつつ、そうかではこの課題は視界に入れる価値に相当したのだなと、
そんなことをぼんやりと小太郎が思ったのが、つい先日のこと。

ああ、今日もしていないなと、廊下の向こうからやってきた松永の顔を我知らず眺めていると、
まるで心を読まれたように、通り過ぎざま、ぴたりと松永が足を止めた。
「無くても不便とは思わないが……気になるかね?」
ふむと思案にくれた松永は、ふと思いついたように件の眼鏡を取り出した。
「試してみるかね」
手渡されるまま、小太郎はひょいとその眼鏡を掛けてみた。
とたんにぐらりと眩む視界。
船酔いの如き不快さを覚え、思わず口元を押さえる小太郎に松永は苦笑しながら手を出した。
「卿にはきついだろう。さ、返したまえ」
目が良くないとは言っていたが、これ程までとは思わなかった。
もしや、今はほとんど見えていないのではなかろうか。
試しに少し後ろに下がり、距離をおいてみる。
このくらいならどうだろうか。
何本か指を立てた手を前に出して、ひらひらと振る。
「見えないね」
一歩前へ。
「見えない」
さらに一歩。
「まだ見えない」
ではこれなら? とほぼ顔の前に手を出そうとした、その腕がいきなりぐんと引っ張られた。

「このぐらいなら」

目と鼻の先、薄い硝子の向こうで、端正な顔が薄く笑った。






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